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【開催レポート】「東京芸術祭ファーム2024 ラボ シンポジウム 『どうすれば私たちは違ったまま一緒にいられるのか?』について」
(文:内野 儀 写真:松本和幸)
(文:内野 儀 写真:松本和幸)
東京芸術祭ファームは、同芸術祭の人材育成と教育普及の枠組みである。HPによれば、
東京芸術祭ファームは、東京芸術祭の人材育成と教育普及の枠組みです。アジアの若いアーティストの交流と成長のためのプラットフォームであったAPAF(Asian Performing Arts Farm)に、フェスティバル/トーキョー(F/T)の研究開発・教育普及事業が合流し2021年にスタートしました。
今年の東京芸術祭ファームは、研究開発を通じた人材育成のための「ラボ」と、教育普及のための「スクール」の2つのカテゴリーで様々なプログラムを実施します。「ラボ」では、他者と協働しながら地域や分野を超えた“トランスフィールド”を開拓し、今後ますます流動的になる様々なボーダーを自由に行き来して活躍する人材の育成を目指します。「スクール」では、大学生を中心とした若い観客を対象に、レクチャーの受講やトークイベントへの参加など、舞台観劇を通して、考え、交流する機会を提供します。
(https://tokyo-festival.jp/tf_farm/)
これからレポートするラボの枠組みで開かれたシンポジウムは、「ラボが取り組んできた『人材育成』『国際共同制作』を踏まえ、アーティストが持続可能であるために必要な『連帯』について考える」(https://tokyo-festival.jp/2024/program/farm-lab-symposium)ことを主旨とし、9月29日の18時45分~21時15分、東京芸術劇場ギャラリー2で開催された。
参加したのは全部で4名。インドネシアのアーティスト・コレクティヴのルアンルパに参加しているファリッド・ラクン、パリを拠点とする台湾人アーティスト、リバー・リン、ドイツでの仕事が多いが、現在はカナダ・モントリオールで開かれるフェスティバル・トランスアメリークの共同芸術監督マーティン・デネワル、それに演劇作家・小説家の岡田利規である。モデレーターをArt Translators Collectiveの田村かのこがつとめた。
最初に登壇したファリッド・ラクンは、自身も参加しているコレクティヴのルアンルパの集まり方の原理にあるコンセプトを「エコシステム」として説明する。コレクティヴへの参加者それぞれは知識であれスキルであれなんらかのそれ自体としてのリソースであり、集まることで、その自身のリソースを「まん中」に投げ込むというイメージでシェアをするというのが、相互に影響し合うものとしての「エコシステム」が出来るまずは出発点となる。2001年にルアンルパが始まった頃はそういう感触だったが、活動がより活性化していくと、今度はどうやって「外部」と向き合うかという課題が出てきたという。とはいえ、これまで出来してきた「エコシステム」をいわばOSとして、より具体的な形態へとつなげていったのである。
2018年以来、毎年行っている「グッド・スクール」という、ルアンルパのようなコレクティヴが三つ集まってできたコレクティヴ(ズ)としての活動がある。名前が示すとおり、教育あるいは人材育成を主眼としたプログラムだが、新しい試みであるために、これが正解というやり方はなく、試行錯誤を重ねながら継続している。ここへの参加者は、コロナ禍だったこともあり、遠隔での交流が活発になった結果、かなりの地理的なあるいは国際的な広がりをみせている。
他方、昨今、ルアンルパが集中しているのは、インドネシア国内の「エコシステム」の展開である。ルアンルパは通常は反体制的なスタンスだが、現行政府とは珍しく折り合いがよく、「リヴィング・ルーム」という名をもつスキーム/システムで、2023年には、11の組織と10のインドネシアの都市が参加し、その間でレジデンシーを行って、参加者が動き回り、互いに学び合うようなプロジェクトを行った、という。
シンポジウムのテーマでもある〈共生〉ということでは、「共に存在しましょう」といっても、それぞれの関係性には権力勾配があるので、誰がそれを求めているかによって、答えはかわってくる。都市部にいる者が地方の者に言うのか、かつて植民地化した日本がインドネシアに言うのか、あるいはその逆なのか。いずれにせよ、「共に存在しましょう」といったときに、なにが、あるいは誰が、排除されているのかへの目配せが重要ではないか、と最後にまとめることになった。

引き続き登壇したマーティン・デネワルは、ファリッド・ラクンの話を受けるように、これまでの活動で、「違ったまま一緒にいられるのか」を考えるときに、自ら問うべき5つの「問い」を紹介した。
1.誰がキュレーション/プログラムの決定権を持つのか?
2.誰が芸術的あるいは財政的リスクを負うのか?
3.誰が公的言論との仲介をし、また枠付けるのか?
4.この場所とあるいは、どの観客と、どのテーマや美学が響き合えるのか?
5.エコシステムのなかで、「役に立つ」のバランスをどのように見いだせるのか?
デネワルが特に強調したのは、エコシステムがメタファーではなく、現実のシステムとしてどうあるかということだ。自身の言動や意志決定や決断や行為を枠付け、価値付けるものとしてのシステムである。エコシステムはしたがって、エコロジー的なシステム同様、自分が生息するフェスティバルの中では、つねに具体的なものとしてあるという。そのため、位置性(自身がそのシステムの中でどの位置を占めるのか)がきわめて重要になる。
そうであるからには、自身が共同芸術監督をつとめるフェスティバル・トランスアメリークが開催されている「場所」の話からしなければならない、とのことで、写真を見せながら、カナダ・モントリオールとして知られている街は、実は先住民の言葉では、ムニヤンあるいはジオジャケと呼ばれていた場所だというところから、位置性の話は開始された。
フェスティバルはその第1回が1985年に開催されているが、明らかに「白人の女性」、すなわち植民者としての属性をはらむ氏としては、いったいどのようにフェスティバルをつくればよいのか、という問いかけが必須となる。デネワルは、それは先住民の意見を聞くことからだと考えた、という。実際に聞いてみると、かえってきた答えは、6世代後のことまで考える、というものだった。それはつまり、これから6世代後のことを想像/想定したプログラミングが必要ということなのだ。
そのなかでは、脱植民地や環境汚染の問題に向き合うことが当然要請されるが、このふたつの主題は相互排除的になることがあるため、脱植民地的エコロジーということを考える必要があるとデネワルは言う。たとえば、現代アートの世界では、移動手段として飛行機に乗らないという環境破壊の問題に寄与する動きが加速している。しかしながら、これは欧州中心主義的な考え方であり、結局、権力と富が欧州に集中することを加速させてしまうだけになる。そういうアポリアを意識しつつも、他方で、文化収奪的な国際フェスティバルの歴史的規定性を、どう変容させていくのか。どうやって、エコロジカルなモデルを参照しながら、かつ、脱植民地的プログラミングが可能かを話し合い、かつ実践していくかが問われている。
最後に、イヌイットのアーティストとのコラボレーションについてデネワルは触れ、結局のところ、他者の「条件」や「状況」を前提として協働するしかないのでは、という言葉が出てきた。このイヌイットのアーティストは、今までの人生も、プロとして活動してきたキャリアも、私たちとは全然違う考えをもとにした、全く違う生き方をしてきており、アートに対する考え方も、時間の整理の仕方も、移動に対する考え方も違ったが、だからこそ、こうした不均衡に与えられた状況のなかで、応接していくしかないというのである。

次の登壇者リバー・リンは、「クイアなキュレーション」について語るといってプレゼンテーションをはじめた。「クイア」というより「クイアる(queering)」という動詞がふさわしく、この場合の「クイア」はセクシュアリティに結びついているわけでないという。というのは、認知の構造化のために採用される二元論/バイナリーではないノン・バイナリーな考え方に与するという意味合いで使っているからだ。それはつまり、境界線を越えていくことなので、文化アクティヴィズムそのもの、ということになる。
その出発点としては、デネワルと同様、土地(land)の問題が出てくる。氏は台湾の出身だが、台湾には先住民がいたわけで、そのことから始める必要がある。あるいは、二元論的というと西洋と東洋の二元論とイメージしてしまうが、脱植民地化といっても、アジア内にも二元論的境界がひかれている。日本と台湾、あるいは朝鮮半島の問題がすぐにでも思い浮かぶ。ただし、こうした考え方自体、アメリカ合衆国の大きな影響下にある環太平洋地域はかかわっていて、西洋中心主義から脱却するのは容易ではないのだ、とリンは言う。
このように複眼的に物を見ていくときに、権力関係が複雑に交錯するインターセクショナリティという概念が出てきて、そこで重要なのはクイアな意味合いでの「家族」である。この場合の家族は、ドラアグ文化にあるハウス(家)ということとつながっている。家族関係には、権力勾配は当然あるけれども、連帯や協働といったときに、こういう意味合いでも家族というイメージが使えるのではないか。
差異をどう考えるか、という場合、自身の位置性を自覚することが重要になる。歴史的、組織的、アイデンティティ的に、自身はどこに位置しており、それは何を意味するのかを知った上で、集まることが重要だとリンは言う。そしてそれを一種の技巧として考え、ADAM(Asia Discovers Asia Meeting for Contemporary Performance)というプラットフォームをたちあげたのである。ADAMのエコシステムをどう作るのか。業界/制度的な内部で、オルタナティヴな表現を立ち上げる。そのために、アーティスト・ラボという集まりの場をつくり、多様なジャンルのアーティストにレジデンシーをしてもらって、互いに学び合うような環境になっている。いわゆるフェスティバルと異なるのは、できあがった作品を見せるのではなく、とにかく来てもらってそこから考えるという道筋をとっていることである。プレゼンターやキュレーターは作品を買うために来るのではなく、アーティストから学ぶためにADAMに来ているのだ。
「クイアる(queering)」のもうひとつの事例として、新しいフェスティバルのかたちを作る必要を感じたリンが考えた新たなプロジェクトは、「クルージング」と呼ぶものである。台湾もインドネシアも日本も島であり、都市という狭いイメージではなく、群島の一部としての台湾という地理を俯瞰的にイメージすることを実践していく。そこで、台北国際芸術祭の中で具体的なプログラムとして立ち上げ、毎回異なるキュレイーター(チーム)に任せて、この「クルージング」を、芸術祭の一部として実践することにしたという。

最後に登壇した岡田は、自身が2025年から東京芸術祭のアーティスティック・ディレクターになることをふまえ、アーティストとしての発言とともに、芸術祭のプログラムを考える立場からの発言となった。周知のように、分断という大きな問題があり、そこにどう応答するか、そしてまた、このシンポジウムのテーマとしての「どうすれば私たちは違ったまま一緒にいられるのか?」ということにも、応答していきたいと考えていると最初に語った。
岡田によれば、自分が帰属する日本語/日本文化の文脈と異なるところで作品を上演する機会が多いのだが、それは「違ったまま一緒にいる」とはいえないのではないか。つまり、自分の作品には美学があり、その美学に共鳴する人が集まっているだけで、それは「違って」いないのではないかという疑義をいつももっているという。
アーティスティック・ディレクターとしては、舞台芸術を通して分断の問題に応答したいと思いはするが、そこには限界があるのではないか、とも考えている。すべての舞台芸術や芸術祭のことをいっているのではなく、東京芸術祭に限定した話だと言いつつ、そのメイン会場になる三つのスペースのある東京芸術劇場で開催することが前提になっていて、それを「クイアる(queering)」とはどういうことか、まだわからない。というのも、劇場という制度のもつ制限性がたちふさがっていると感じるからである。多様な作品は上演できるにしても、それはノンバイナリーな動きにはつながらないのではないか。もちろんそれはリソースの問題であるのかもしれず、その不足もまた、強く感じているという。

このあと、質疑応答の時間がもうけられ、モデレーターの田村から、自分たちが思い描く理想や実現したいアイディアと、実際の現場のありようのあいだに否応なく存在する乖離について、どう考えるのかという問いがあり、それぞれのパネラーが応答し、さらにフロアからの質疑応答もつづいて、本シンポジウムは、その幕を閉じることになった。
「どうすれば私たちは違ったまま一緒にいられるのか?」というタイトルにふさわしい内容のシンポジウムであり、それぞれの立場から、同時代的には「多文化主義」や「共生」という理念が失効している、あるいは単なる「きれい事」で中身は空虚だという前提が共有されるなか、分断を嘆くのでも、「完全な平等」なる不可能な理想を言いつのるのでもなく、どのように集まって何を為すことができるのかについて、きわめて具体的に語られたことが印象的だった。なかでもリバー・リンが繰り返し提出した「家族」というオルタナティヴなエコシステムの別名、哲学者の東浩紀の近年の哲学的思考とも響き合う〈概念〉に、筆者は大きく頷かされることが多かったことを最後に付け加えておきたい。

東京芸術祭ファーム 2024 ラボ シンポジウム『どうすれば私たちは違ったまま一緒にいられるのか?』
日時:9月29日(日)18:45〜21:15
場所:東京芸術劇場 ギャラリー2
言語:日本語・英語(逐次通訳)
料金:無料
登壇者:マーティン・デネワル、リバー・リン、岡田利規、ファリッド・ラクン(ルアンルパ)
モデレーター:田村かのこ
通訳:山田カイル、植田悠