演劇は誰のためのもの?
「東京芸術祭」総合ディレクター・宮城聰ロングインタビュー(ゲンロンα)に見る、
孤立と連帯、演劇の公共性について 後編

宮城聰演出 ク・ナウカ『王女メデイア』(2005年)舞台写真より © 内田琢麻

「東京芸術祭 2020」の総合ディレクター・宮城聰の連続インタビュー「【特集:コロナと演劇】宮城聰ロングインタビュー──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて」にスポットを当てるコラム、後編をお送りする。

「世界」と理解し合うために

1993年、宮城は前・静岡県舞台芸術センター芸術総監督の鈴木忠志が富山県利賀村で主催する「利賀フェスティバル」で、ロシアの演出家、アナトリー・ワシーリエフの劇団の稽古に触れ、それまでプロデュース形式だった「ク・ナウカ」の劇団化を決意する。延々と稽古を繰り返す彼らの姿に、同じ時間や空間を共有することで生まれる「俳優同士の身体知の共有」、演技・舞台の圧倒的な“厚み”を見たからだ。世界レベルを目指すには、もう一度「演劇における、もっともポピュラーな集団の形」に立ち返る必要があると悟ったのだった。

以降、「ク・ナウカ」は、1つの役を語る俳優と動く俳優を分割する「二人一役」という、この劇団を代表する手法を推し進めると共に、積極的に海外公演を行った。ある時には、呼ばれぬ国に勝手に(!)押し掛けたり、またある時は、現代演劇を受け入れるフォーマットがない国にも「これやるんで見といてください」とばかりにビデオテープを送り付け(!)、臆せず赴いた。

宮城 人間と人間は理解しあえない、しかし理解できるときがある。そんな奇跡の瞬間を求めて演劇をやっている。(…)お客さんが日本人だけではどうか、と思うのもそれが理由です。できるだけバックグラウンドや価値観のちがうひとたちと出会いたい。そして「それでも理解しあった」と感じられる瞬間がある、と思いたい。

こうした視点は、国際舞台芸術祭を“あえて”今やる意義を語った、彼の東京芸術祭2020開幕の言葉「東京芸術祭、やります。」などの言葉にも連綿と繋がっているように見える(この話題は、本インタビューの第3回「演劇は「不要不急」か?」に詳しい)。

演劇は、世界から疎外されている人たちのためのもの、だった

2007年、宮城は主宰する劇団「ク・ナウカ」の活動を休止し、鈴木に代わってSPAC-静岡県舞台芸術センターの芸術総監督に就任する。その理由の1つは、SPACが、彼の理想とする「公立劇場」の要件を叶えていたからだという。

宮城 ぼくが本来、公立劇場とはこうあるべきだと思うあり方は、劇場に専属のカンパニー(劇団)があって、その劇団が劇場を管理しているというかたちです。英語で “theatre” という言葉は、劇団と劇場の両方を指しますが、現在の日本では、ハコ(建物)だけを劇場と呼ぶようになっている。(中略)SPACは日本ではじめて、そのような世界基準の公立劇場のあり方を実現した、稀有な劇場=劇団なんです。

もう1つの理由は、「ク・ナウカ」の評価が高まる中で感じていた、あるジレンマに起因していた。演劇界での劇団のポジションが上がっていった背景には、主に国内外の演劇リテラシーの高い人たちによる評価がある。先端的な現代演劇を鑑賞することを人生の楽しみとしている人たちによって見られ、評価され、それによって公的な助成金が入り、結果として活動が継続できる——こうした状況に疑問を感じたのだという。果たして演劇の観客とは、彼らのような人々“だけ”でいいのだろうか? と。

宮城 もともとク・ナウカなどの小劇団に入ってくる人間は、ぼくも含めてみんな、いまの世の中に自分はうまくフィットしないと感じていたひとたちです。自分はいまの世界から疎外されている、世界とつながっていない、そんな感覚にぎりぎり解決策を与えてくれる、いわば回路をつくってくれるのが、ぼくたちにとっての演劇でした。演劇という「細い橋」によって、なんとか自分と世界とがつながる。(…)
しかし、自分たちの演劇は、世界から疎外されているひとたちに観てもらっているだろうか。そう考えると、「世界から疎外されている」と感じているひとの多くは、まず劇場に行かない。

演劇はどこに届けるべきものなのか? 東京芸術祭2020における「公共性」

本来届けるべき人たちに、自分たちの演劇は届いていないのではないか?

そうした問題意識に突き動かされた宮城は、中高生を入場無料で招待し、学校から劇場まで来るバス代をSPACが負担するといった「演劇への入口」を作る取り組みに着手する他、上演する作品のクオリティ面でも新たな領域を模索していった。

宮城 ごく少数の通(つう)がおもしろがってくれるように、ひねりにひねるのか。だれにでもわかるように「わかりやすく」するのか。ふつうは、そのどちらかになってしまう。でもどっちかじゃいけない。クオリティが高くて世界で通用すると同時に、生まれてはじめて観るひとにもおもしろい舞台。作品のコア(核)には芸術特有の「謎」があるのに、観るひとが選別されない舞台。SPACに来て以来、ぼく自身が作品をつくるときも、それも心がけるようになりました。

こうした、ある種の「公共性」を考える中で得たであろう視点は、東京芸術祭2020のそこここに散見される。演劇を見る層/見ない層の断絶をなくすため、料金を500円にまで抑えた「野外劇NIPPON・CHA! CHA! CHA!」などはその最たる実践だし、舞台美術家集団が街に出てパフォーマンスを通して人々と繋がる、セノ派の「移動祝祭商店街 まぼろし編」なども、そうした発想の延長線上にある試みだろう。

芸術は——少なくとも舞台芸術は、興行であるという性質上、見られてナンボである。観客がいるから、作品が存在する。そして、その作品は(特に公共事業であるならば)一部の好事家だけのものではなく、多くの人に開かれていることが望ましい。言葉にすると至極当たり前のことのようだが、言うは易し行うは難し。これが想像以上に難しい。しかし東京芸術祭は、トライアルアンドエラーを重ねながら、この目標へと着実に歩を進めつつある。

文:辻本力(ライター・編集者)

※引用元:ゲンロンα「【特集:コロナと演劇】宮城聰ロングインタビュー──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて」

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