【“見どころ解説”レクチャー】
「円盤に乗る派」と新しい演劇のかたち―『仮想的な失調』について

2024年の東京芸術祭では、国外から来訪の方や、英語、韓国語、中国語などを母語とする方々を対象としたツアー事業を実施いたします。
そのうちの一つ、“見どころ解説”レクチャー付き 観劇ツアーでは、ご観劇の前に、作品の内容やあらすじだけでなく、作品の背景やコンセプト、また東京芸術祭や東京芸術劇場などについて詳しく解説するレクチャーを行います。
解説資料を読めば、作品をもっと楽しめたり、観劇が楽しみになるかもしれません!
※このテキストは英語に翻訳されることと事前レクチャーで用いられることを前提に執筆されたものです。

「円盤に乗る派」と新しい演劇のかたち―『仮想的な失調』について

今回、東京芸術祭で『仮想的な失調』を上演するのは「円盤に乗る派」(以下、「乗る派」)という奇妙な名称を持つプロジェクトです。劇団でもコレクティヴでもなく、プロジェクトと自身を呼んでいます。その HP には、以下のような記述があります。

円盤に乗る派は複数の作家・表現者が一緒にフラットにいられるための時間、あるべきところにいられるような場所を作るプロジェクトとして、2018 年にスタートしました。(中略)ここで試みられるのは匿名/顕名が平等になる場所です。誰でも発信が可能であり、大きな民衆の声が響き渡る世界の中で、小さな声が守られる場所はとても貴重です。さまざまな声が飛び交ううるさい場所を逃れて、そこであればしっかりものを見、考え、落ち着くことのできるという場所を確保します。(https://noruba.net/

「匿名/顕名が平等になる」場所、「小さい声が守られる場所」の確保をうたっています。事実、「乗る派」は、東京都荒川区尾久エリアに 2021 年、「円盤に乗る場」という小さなアトリエを開設、18 組ほどのアーティスト(24 年 4 月現在)が共同して、「日々創作したり、集まりを開催」し、商店街などの既存のコミュニティとのかかわりも探りながら、地道としか言いようがない特異な活動を続けています。

 今回東京芸術祭で再演する『仮想的な失調』は、このプロジェクトから生まれ、2022 年に東京・武蔵野市の吉祥寺シアターで初演されたものです。
 戯曲テクストはカゲヤマ気象台が提供していますが、「匿名/顕名が平等になる場所」を目指しているだけに、演出については、蜂巣ももとカゲヤマ気象台が、「全体の演出のプロセスを分担するのではなく、それぞれが独自のプロセスをとったまま、平行しつつ創作を行うという形を」とったといいます(https://note.com/noruha/n/nd713f8a362d0?magazine_key=m1c104069f174)。

即ち、従来の劇団制のように誰かひとりが全権を担って「上から目線」で演出するのではなく、かといって、集団創作(コレクティヴ)のように、責任主体を分散することで上演への責任を放棄するのでもなく、ふたりの演出家の「平等な」責任によって、立ち上げられた舞台だったことになります。

題材は、日本の伝統芸能である狂言と能から取られています。「名取川」と「船弁慶」です。前者は、京都にある比叡山で受戒して二つのありがたい名前をもらった物覚えの悪い僧侶が、名取川を渡るとき、その名前を記した服を水で濡らして忘れて困惑していると、地元の人(「名取り某」)に思い出させてもらう、という話。

 「船弁慶」は、中世日本を代表する『平家物語』と『吾妻鏡』等に取材した能楽のための作品で、現代人にも親しみがある「悲劇のヒーロー」源義経とその忠実な従者である武蔵坊弁慶、そして義経の愛人静御前、さらに義経軍に滅ぼされた平家の武将・平知盛の幽霊などが登場します。兄の源頼朝に忠誠を疑われて西国へ逃亡を試みる義経ですが、前半では静御前の痛切な別れが描かれ、逃亡用の船を用意する漁師が登場する間狂言(中間部)を挟み、後半は義経一行が乗る船の行く手を阻む知盛の亡霊との闘いとなります。

 この 2 作品をカゲヤマ気象台は、ネット時代になってアイデンティティという概念が、ますます曖昧になっている三幕 14 場の「現代の物語」へ書き換えます。僧侶は「・・・」なるアイデンティティを失った現代人として登場。名前を思い出させる地元の人は「Citizen」(市民)や「なとり」という人物で、名取川はコンビニになります。

義経は、兄に悪評を SNS で拡散されて炎上し、追い詰められて記憶を失った「9 太郎」(「・・・」は「9 太郎」であることを思い出します)に、静御前はペットの犬らしい「シズチャン」、武蔵坊弁慶は「9 太郎」につきそう自称友人の「ムサシ丸」、漁師はゲストハウスの「Owner」に。また、語り手的な役割の「幽霊」というキャラも登場します。

前半の「Citizen」と「なとり」が後半の「Owner」と「ムサシ丸」、また「シズチャン」と後半の終結部(三幕三場以降)に出てくる知盛の亡霊の現代版らしい「ヒラオカクン」等の一人二役もあり、少々わかりにくいかもしれません。「乗る派」しかし、わかりにくさを狙っているのではなく、アイデンティティの不確定性を、さらにいえば、記憶の曖昧さを、この作品で問題にしています。「シズチャン」はペットの犬のようだが、なぜか普通に人間と話します。記憶を失った「9 太郎」は、「ムサシ丸」や「シズチャン」のことを忘れているようです。

 ただし、よくある「なんとなくの現代的不安」だけが、本作のテーマではありません。というのも、「9 太郎」の記憶喪失にはどうやら、「ヒラオカクン」の自死という過去の出来事が大きくかかわっているようなのです。これ以上はネタバレになるので、差し控えます。しかし、義経軍による平家の滅亡と義経自身の逃避行というテレビや映画で親んでいる物語に、カゲヤマ気象台は、現代のネット社会では誰でも犯しうる罪の問題という大きな主題を持ち込んでいることに、ここで注目しておきたいと思います。

 そのことはまた、既に触れた本作のカゲヤマ気象台と蜂巣ももによる、あまり例を見ない演出法による、俳優たちの浮遊するような演技や台詞術にもかかわっています。いわゆる劇的に叫ぶ絶叫型でも、現代口語演劇の写実的な発語でもない、特異な台詞術がここにあり、その点にも注目が必要かと思います。

 「乗る派」は、古典作品を出発点にしながらも、単に現代に物語を読み替えるのでなく、現代演劇における創作方法と上演のかたちにも、創造的変容をもたらそうとしています。物語と上演方法があいまって、このように本作では、「常に複数の SNS を使い分け、様々なアイデンティティを駆使する現代の生活」(HP より)が、「仮想的」に「失調」しているのでは、という問いを観客と共有しようとするのです。

執筆

内野 儀 UCHINO TADASHI

1957 年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017 年 4 月より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『Crucible Bodies』 (2009)。『「J演劇」の場所』(2016)などがあ
る。