『ビッグ・ナッシング』観劇レポート
事前に用意した影絵や切り絵の映像の技術を用いてはいるが、その情景とパフォーマーの動き、実際の影の正体だと思われる扇風機などから出す生の音の組み合わせによって、明らかに作りものであるとわかる表現ですら現実との境界を曖昧にさせるほど、私達を作品の世界に引き込む高い芸術性を見出した。
この感覚は座談会の中であった「文楽」に近いものであったという意見が私の心情に最も近いもので、作品内での映像と影、照明とパフォーマーが不規則に噛み合う事によって初めて『魅せている情景』が本当に『現在進行形で作られている事』を知覚できるものなのだろうと感じた。
パンフレットでの経歴も併せて見るとやはり演劇ではなく、巧な技術の総合体による小規模な『メディア』であると実感した。
以前より照明や映像、美術方面での技術を活かし、それらの統率を取ってはいるものの『それだけ』で、明確な意図はない。狭義的な『演技の技術』で情景そのものをただリアルタイムで表現する。つまりこれは双方ではなく投げかけ、キャッチボールではなくドッジボール。これを演劇的な舞台芸術として観るためには私には『生で行われてる』事実が欠けていると考えた。
これも座談会内で触れた事ではあるが、この作品はリアルタイムで上演する事によって離脱できない空間となる。この受け手側がコントロールできないストレス要素が作品を理解しようとする演劇的思考を発生させるものである。しかし、私の観た回では会場を見渡すと眠ってる人や時計や携帯を弄る人、離席者も出た。やはり映像の切り取り方の都合もあってかパフォーマーが意図を持っている姿を視認できない、という時点で舞台作品と観客との関係性を構築するのは不可能に近いと実感した。
『映像作品』と『舞台作品の映像』の一番の差異はその点にあるだろう。この作品ではビデオでも美術性が担保されていた事は純粋な技術力の高さ故のものであり、その点については目を見張る。しかし私の目には『劇ではなかった』点が至極残念に映ったのである。今回の新型コロナウイルス感染症対策として撮影されたものだと伺っていたが、その事が作品の本質自体を侵していく様子を目の当たりにした体感であった。