『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』
観劇レポート
日本大学芸術学部演劇学科1年
植木あすか
 初めて野外劇というものを観た。もともとの観劇の回数も多くはないが、やはり屋内とは違う独特の解放感が肌にしみた。特に、劇中で「からっぽ!」と歌いながらビルやら電車やらを指さすシーンでは、「まさに今そこを指しているんだろうなあ」と実感した。劇を見ていない通りすがる人たちにも向けている気がして、私たちは全員空っぽなのかもしれないと感じた。きっと屋内であちこち指さされても実際にその場に見えないものを指さすことになるので、私たちのすぐ傍にある空っぽには気づき難かったのではないだろうかと思う。
 劇の初めに、先生役が、いつに書いてもいつを書いても戯曲は「今」を表すものである、と言っていて、初っ端から胸をぐわっとつかまれた感じがした。確かに劇は衣装や小道具など昭和を感じるものだったが、テーマは今にも通ずるものだった。
 劇中に何度も出てくる「からっぽ」。役者たちに力強い目つきではっきりと指をさされながら「からっぽ」と言われたときに、泣きそうになった。ギクリという擬音も正しいだろう。これは私自身、このからっぽの感覚を知っているからだと思う。大人になるにつれ、見て見ぬふりをすることが多くなっていき、アイデンティティが溶けていく感覚は「からっぽ」と言ってよいと思う。それを知らないふりをしていたのに無理やりにでも意識させられて感情が高ぶった結果泣きそうになったのだろう。
 印象的だったのは、周囲がカズオに期待をかけお祭り騒ぎをしている中、足を怪我しているのを知っていたフクダコーチとイケダ君は初めはそれに背を向けていたのに、途中から吹っ切れたように輪の中に混じったところだ。怖くもあったし悲しくもあった。笑って騒ぐ時というのは、もちろん楽しいからというのもあるが、何かを隠すときも笑うものなのかもしれない。不安や悩み、嘘をつくとき、私たちは笑って騒いで、それを無いことにするという選択肢をとるしかない時もある。それこそ、「からっぽ」から目を背けるためにもばか騒ぎをする。また、それに巻き込まれたカズオを見て、自分だけの自分ではいられないことの怖さも感じた。誰かに期待をするというのは、からっぽの擦り付けなのかもしれない。自分の空洞を他人に埋めてもらおうとするのは、相手に対しても自分自身の生きざまに対してもひどく無責任だけれど、ついやってしまいがちなことだろう。私たちはそれをしてはいけないと知っていながら、する。日常はそんなことで溢れていると思う。
 劇を見て楽しかった感情や少しの寂しさを感じた。と同時に、こういった私たちが抱える負の部分を一個一個掘り出して立ち止まらせてくれるのが演劇の良さだなあと感じた。自覚させられるとひどく精神力を使う。芸術というのは私たちに楽をさせてくれないものだなあと思う。沢山脳みそと心を活動させてくれた。元気がもらえた劇だった。