「学生のための観劇プログラム」座談会に見る、観客の「多様な解釈」の豊かさ

芸術は、作り手“だけ”のものではない。作品は、見られてナンボ。観客の目が、その成熟こそが作り手を、作品を、そのジャンルを下支えしているのである。

「東京芸術祭」では、2019年度より若い観客の育成を目的とした「学生のための観劇プログラム」を実施している。昨年(2020年)に開催された東京芸術祭2020では、コロナ禍における舞台芸術活動の取り組みに触れ、考え、交流する機会を提供することを目標に、演劇に関わる学生たちを主な対象とした観劇プログラムを展開した。参加した学生は300名を超える。

学生たちは、公演主催団体の協力により、対象作品である『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』『真夏の夜の夢』『フィガロの結婚』『紫気東来ービッグ・ナッシング』『汝、愛せよ』を特別料金で観劇。その後、作り手たちや学生同士で意見を交換することで、作品への理解を深めた。「学生のための観劇プログラム 特設サイト」にまとめられた座談会やレクチャーなどの様子からは、その充実ぶりと熱気が伝わってくる。

1964年と「今」が交差する 野外劇『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』

特設サイトは、座談会×3レクチャー×1学生たちの観劇レポート×47(!)、さらに参加者の声を集めた読み応えたっぷりの内容になっている。それぞれ面白いのだが、筆者がとりわけ興味を引かれたのは、多様な意見が飛び交う学生と作り手たちによる座談会だった。

池袋西口公園野外劇場で上演された野外劇『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』をめぐる座談会は、東京芸術劇場内に設けられた本会場とリモート会場の2箇所をつないで行われた。本会場には、学生と先生を合わせた十数名が、そしてリモート会場には実に約40名の学生が集まり、その盛り上がりはお祭りさながらだったそうだ。

野外劇文化が盛んな韓国の留学生(大学院生)からは、普段参加型のそれに慣れているがゆえの、舞台と客席との間に引かれた「一線」への違和感が語られ、日本人の学生からは、都会という「日常」と演劇という「非日常」が同居する空間の面白さが語られたりと、率直な意見が新鮮に響く。

また、途中からの参加となった本作の音楽担当、異能のビッグバンド「渋さ知らズ」のリーダー不破大輔と、パーカッションで演奏に参加した柴崎仁(玉川大学のOBでもある)の2人からは、池袋という大都市の喧騒の中、リアルタイムで舞台に演奏をつける上での「音で結界を張る」工夫が語られた。いわゆる「普通の劇場公演」とはまた違った環境ならではの視点が面白い。

また、1964年の東京オリンピックに材を得た本作における「からっぽ」というキーワードをめぐっては、上演台本・演出を担当した中島諒人、主演を務めた川鍋知記が登場し、学生らと意見を交えた。明治維新以来、外国文化を必死に吸収し、それを「自分たちのもの」にしようと葛藤してきた日本人の姿、そうした過去を通して「今」を眼前に突きつける作品の批評性が浮き彫りになっていく様子がスリリングだった。

「自分たちの話」としての『汝、愛せよ』

また、同じく東京芸術劇場内の会場で行われたもう2つの座談会は、いずれも海外から招聘された作品をめぐって行われた。俎上に上げられたのは、2019年度の東京芸術祭ワールドコンペティションで観客賞、批評家賞、最優秀パフォーマー賞の3つの賞を受賞した、チリの劇団ボノボの作品『汝、愛せよ』。そして、同賞最優秀作品賞を受賞した中国の戴陳連(ダイ・チェンリエン)作による『紫気東来―ビッグ・ナッシング』である。ちなみに舞台上演はなく、昨年の同芸術祭における舞台映像を『汝、愛せよ』は東京芸術劇場シアターウエストで、『紫気東来―ビッグ・ナッシング』はシアターイーストでそれぞれ上映すると共に、オンライン配信するという形がとられた。

『汝、愛せよ』は、地球に難民としてやってきた地球外生命体と人間との交流を軸に、差別や暴力などの社会的問題や、「他者」に対する眼差しなどをテーマにしたブラックユーモア溢れる作品だ。

対話は、学生たち各自が作品を鑑賞して受けた印象を一言で言い合うことから始まる。「責任感」「差別」「孫の手」「動物」「アイロニー」「空気」「気まずい」といったキーワードから、作品について語り合い、何が描かれていたのかを読み解いていく。

韓国や、中国でも少数民族の多く暮らす雲南省出身の留学生が参加していたことから、やはり「差別」の問題に関する発言は生々しく響く。日本人学生からの、親愛の表現であると同時に、時に差別的なニュアンスをも持ってしまう「あだ名」の問題への言及は、卑近な例えだけに、誰しも自分事として考えるきっかけとなる視点だったように思う。

言葉も文化の異なる外国の作品でありながら、出身国の異なる学生たちが一様に「自分たちの話」という認識のもとに対話を重ねていく姿は、この作品の持つ普遍性の証左であろう。

『紫気東来―ビッグ・ナッシング』に見る、「生」と「記録」の関係性

一方の『紫気東来―ビッグ・ナッシング』は、作者の幼少期の思い出や、9世紀中国の怪異記事集成『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』をもとに、夢と現実を交錯させた影絵芝居である。ややとっかかりが難しい作品だったが、『汝、愛せよ』座談会とほぼ同じメンツから成る参加者たちは、探り探り作品の深部へと迫っていく。

明確なストーリーがないこと、影絵という抽象度の高いビジュアルが選択されていることなどから、やはり解釈や感じたものは千差万別。中国の歴史や文化的な背景から読み解こうとする中国留学生もいれば、「中国の作品を見ているという感じはあまりしなかった」「拷問でした(笑)」などと率直に語る者も。「観客に解釈が委ねられている作品で、つまりそれだけ解釈の振り幅がある」という意見もあったが、ある意味、こうした複数の人間で意見を交わす場には格好の作品だったとも言えよう。

一方で、「果たしてこれは映像で受け止めきれる作品だったのかな? やはり生でないと僕らはわからなかったのかも」という意見も。映像になることで、この作品が持っていた「観客に委ねる」の部分が弱くなり、一種のドキュメンタリーを見ているような感じになってしまった(でも、生で見たらかなり印象は違ったはず)、という指摘だ。舞台で見ることを想定した作品を映像で見ることの難しさ、という、舞台芸術と記録芸術の間に広がる容易に埋めることのできない溝がいやがおうにも想起される。

ここには、東京芸術祭2020の育成プログラム「APAF(エーパフ)」において、ディレクターの多田淳之介が模索した「オンラインコンテンツのパフォーミングアーツ化」という視点と大きく重なるものがあるように思える。それは、オンライン公演(映像)は舞台公演の「代替」であることをやめ、独自の表現や価値を確立できるか、という挑戦である。こうした無意識的に共通するテーマや問題意識が浮き彫りになってくるのも、多彩な舞台やプログラムを内包する「芸術祭」というフォーマットならではだろう。

要点を押さえた読みやすいレポート記事にまとまっているので、ぜひそれぞれ原文に当たってみて欲しい。学生たちの、舞台への真摯な姿勢がビシバシ伝わってくる観劇レポートも必読。

文:辻本力(ライター・編集者)

※引用元:学生のための観劇プログラム 特設サイト、
APAF2020テーマ「Anti-Body Experiment」

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