東京芸術祭ファーム2023 アシスタントライター プロセス発信記事「歴史に巻き込まれるということ:植民地を奪還し、植民地主義を埋め立てるために」石川 祥伍

執筆課題
あなたが最近見た舞台芸術作品、もしくは経験した(※)アートプロジェクトについて、...... あなたなりの視点を交えて紹介してください。

※鑑賞者として最終的な、あるいは一時的、中間的なアウトプットのみに接した、というような場合も含みます。

 東京芸術祭ファーム ラボのアシスタントライターに応募するために書いた課題文のタイトルは「プロセスに巻き込まれるということ」。ある画家の公開制作を鑑賞した際、画家が私に話しかけてくれたという体験をもとに、鑑賞者との出会いを通じて画家の描く絵が変わっていくプロセスについて執筆した。

 アシスタントライターになるまで、私は一度も演劇やパフォーミングアーツなど舞台芸術についての文章を書いたことがなかった。高校を卒業してから書き始めた文章も現代美術の批評がその多くを占めた。しかも私は大学を歴史学専攻で卒業し、近代日本史についての卒業論文を執筆した。舞台芸術に縁のない私がアシスタントライターに応募したのは、広義の芸術について書くことに関心があったのと同時に、歴史を勉強してきた身として舞台芸術のアーカイヴに興味があったからだ。募集要項を読むなかで、かたちが残りやすい現代美術とは異なり、「いま、ここ」でしか上演されない舞台芸術が後世に残るためにはそれが記録されることが必要だということを知った。

 アシスタントライターに応募したもう一つの理由は、日本の植民地主義の歴史に対する問題意識を持っていたからだ。アシスタントライターはAsian Performing Arts Camp(以下、キャンプ)という、アジアの若いアーティストが集まるキャンプに帯同して、その様子を伝えることになっていた。アジアのアーティストが日本に集まるという性質上、日本が他のアジア諸国に植民した過去を無視することはできない。だから、日本人のアシスタントライターとしてアジアのアーティストについて書くことの責任を考えなければならない。それは私が日本の帝国主義や植民地主義について研究していたときに常に意識したことでもあった。キャンプに帯同するなかで、日本の植民地主義の歴史と現在における自分の立ち位置を異なる角度から再考したかったのだ。

スジャトロと私

 アシスタントライターの活動は2023年8月に始まった。毎月のファーム編集室のミーティングに加え、キャンプのオンライン活動に帯同した。私はあくまでもライターという立場からキャンプの様子を観察していたので、キャンプの活動に参加するつもりはなかった。ところが、そうもいかなかった。

 中間発表の場であるOnline Sharing Sessionにむけて、キャンプに参加するアーティストたちが発表の準備をするなか、私はアーティストの一人であるスジャトロ・ゴッシュの準備をみていた。スジャトロは蚊の羽音が流れる中で詩を朗読するパフォーマンスを行おうとしていたが、どのようにZoom上で蚊の羽音の音声を共有するかわからない、と困った顔をしていた。ちょうど私はZoomで音声を共有したことがあったので、スジャトロに共有のしかたを教えたところ、結果的に私が本番のパフォーマンスでも音声を流すことになった。

 10月初頭の一週間の東京滞在でも、私は予期せずスジャトロのパフォーマンスを手伝うことになった。滞在初日、それぞれのグループで翌日からのリサーチについて話し合っていた。別のグループでは、スジャトロがパフォーマンスに使う冊子を制作したいということで、冊子制作の経験がある人を探していた。私が冊子をつくったことがあることを知っていた、コミュニケーションデザインチームの山田カイルさんがスジャトロに私のことを紹介すると、スジャトロは私に「冊子をつくれるか」と聞いてきた。スジャトロが具体的に何を制作したいのかわからないまま、私は彼を前にして「もちろん!」と即答した。

 話を聞いてみると、スジャトロは本番のパフォーマンスでマニフェストが書かれた冊子を観客に配布したいから、その冊子のデザインを手伝ってほしいということだった。私はスジャトロの頭の中にあるデザイン案を冊子の形に落とし込めばいいと考えていた。そんなことはなく、私は冊子のデザインをすべて任されることとなった。冊子を制作したことはあったものの、冊子のデザインを他人から依頼されたことはなかった。今さら断ることもできなかったので、スジャトロの希望を聞きつつ試行錯誤しながら、渡されたマニフェストの文面と写真素材を見栄えがよいように配置した。私が「デザインした」冊子は本番前日に無事印刷され、本番のパフォーマンスに使われた。

アーティストとの搾取の関係に巻き込まれる

 東京滞在では参加アーティストのパフォーマンスを手伝うだけでなく、アーティストのリサーチに帯同したり、アーティストの壁打ち相手になったり、さまざまな形でキャンプにかかわった。しかし、私はアシスタントライターだ。本来、キャンプや参加者の様子を外部から記録するべきなのに、アーティストのパフォーマンスを手伝うことで私はキャンプの内部に取り込まれてしまっていたのだ。応募課題で書いた、公開制作というプロセスに巻き込まれた鑑賞者の私のように。

 キャンプ中、私はライターという立場を一時的に解除することで、対等な立場でアーティストと接しようとした。だが、そう簡単に自分の立場を解除することはできない。立場という権力関係を一時的に忘れることは対等な関係を結ぶうえで肝要なのかもしれないが、それは常に作用する権力の存在を無視することでもある。「対等な関係」は搾取を黙認する口実になりうるのだ。たとえば、ライターという立場を解除した私がスジャトロのパフォーマンスを手伝うとき、私はデザイナーとして、スジャトロはアーティストとして対等に作品を制作する。いま、私はライターという立場を回復させることによって、スジャトロとの対等な関係を利用してこの文章を書いている。その意味で、私は立場を変えることでスジャトロのことを「搾取」していると言えるのかもしれない。

 「搾取」と聞いて思い出すのは、2023年8月23日に実施された、翻訳者で演劇研究者の林立騎氏によるファーム ラボの公開レクチャーだ。レクチャー後の質疑応答の最後、林氏はチャットの質問に応答する形で「搾取されない」ことの重要性を語った。林氏は、公立劇場や演劇祭の労働者は、安い賃金や劣悪な労働環境で雇われているという現状に立ち向かうため、いろんな人を巻き込みながら声を上げることが必要だと言っていた。それはレクチャーの内容とも密接につながっている。

 林氏はレクチャーのなかで、歴史的フェアネス(公正)を公立劇場や演劇祭の指針の軸にするべきだと主張したうえで、それを実現するための第一歩として、プロセスの公開性と透明性を挙げる。これまで劇場や演劇祭が下してきた決断(チケットの値段設定や上演作品の選定基準、労働者の賃金設定など)にいたったプロセスを示すことが、劇場と労働者の関係や、劇場と観客との関係をフェアなものにできるのではないか、と林氏は問いかけた。

 林氏はあくまで「搾取」という言葉を、劇場や演劇祭の労働者が正当な扱いを受けていないという意味で用いるが、「搾取」という言葉を広く捉えたとき、私がスジャトロを文章の材料として利用していることを、私がスジャトロを「搾取」していると言うことができるのではないか。もちろん私がスジャトロをその意味で搾取することによって、彼が直接的に不当な扱いを受けることはない。しかし、立場を変えることができるという意味で、私はスジャトロとの関係において特権的な地位を占めていた。それは社会正義を扱う作品を上演する劇場や演劇祭が、裏では労働者を不当に扱っていることと似た性質を帯びていないだろうか。

 だからといって、アーティストとの搾取の関係を築かないために、私は常にアシスタントライターという立場を明らかにして、アーティストと接するべきだったのか。たとえ私が自分の立場の公開性と透明性を担保したからといって、すぐさま搾取の関係が解消されるわけではない。搾取の構造を支える歴史を知らないかぎり、林氏のいう歴史的フェアネスを実現することはできない。だからこそ、搾取の構造に参加するすべての人が、それに巻き込まれたことを認識しながらも、社会的な不正や偏りを反省的に是正していかなければならないのだ。搾取の構造に巻き込まれた私はどのようにそれを解消することができるのか。私たちがおかれている植民地主義という搾取の構造に焦点を当て、歴史的フェアネスへの道を考えたい。

Reclaiming: 植民地を奪還し、植民地主義を埋め立てる

 私がスジャトロのパフォーマンスのためにデザインした冊子には「野生化と奪還のマニフェスト(Manifesto of Wilding and Reclaiming)」という題がついている。アポカリプス以後の、生き物たちによる世界を想像させるこのマニフェストの題にある「奪還」という言葉は、人間によって荒らされた土地を生き物たちが奪還するという意味で用いられているのだが、先住民族が植民者から土地や自治を「奪還(Reclaiming)」するという文脈で用いられることも多い。そういう意味で、スジャトロのマニフェストは植民地主義にも眼差しを向けている。振り返れば、スジャトロのオンラインでのパフォーマンスのなかで私が流した蚊の羽音は、軍事政権や侵略軍に対するレジスタンスの象徴として歴史的に利用されてきた。スジャトロのパフォーマンスには植民地主義の歴史が通奏低音として流れているのだ。

 私はライターとしての立場以前にスジャトロと非対称的な関係を築いていた。スジャトロが植民地主義への反抗を主題に作品を制作するのは、植民地主義によって抑圧されてきたコミュニティがいまだにその影響を受けているからだ。他方で植民地主義に搾取されていない私には、植民地主義について考えても考えなくてもよいという選択の余地が残されている。私がスジャトロの作品制作を手伝えること自体が、作品制作を手伝わなくてもよい、植民地主義を主体的に引き受けなくてもよいという、私の特権的な自由を表している。

 別の言い方をすれば、日本人である私はアジア人にもなれる。ときにアジア人として他のアジア人とともに植民地主義について考え反抗することができる反面、私は日本人として植民地主義の構造による利益を常に享受している。植民地主義というプロセスに巻き込まれた私は、そのプロセスをいつでも抜け出すことができるのだ。巻き込まれから抜け出せることを知っているからこそ、巻き込まれることができる、その特権性。

 このような特権をもった私たちはどのように植民地主義の搾取の構造にある不正や偏りを是正し、歴史的フェアネスを達成することができるのだろうか。植民地主義の構造の内部にも外部にもいることができるという特権を逆用することで、植民地主義に反抗するための二つの可能性を考えてみたい。

 一つは、植民地主義の構造の内部で、植民者によって奪われた土地を奪還することだ。植民地主義への反抗をテーマとするスジャトロのパフォーマンスの制作を手伝うように、私たちは被植民者と連帯しながら植民地を奪還することができる。ここで奪還を意味する「Reclaiming」という英単語が「埋め立てる」という別の意味を持つことに着目すると、植民地主義の構造をその外部から埋め立てるという、植民地主義に反抗するためのもう一つの方法が考えられないだろうか。植民地主義という土地に土を被せて、埋め立ててしまう。

 だが、私たちは植民地主義の歴史を隠蔽することなく、それを埋め立てなければならない。「プロセスの公開性と透明性」を担保しながら、植民地主義を埋め立てることは、文字通りの土地では不可能なのかもしれないけど、文章では可能ではないか。ライターとして歴史を記録することは、植民地主義を埋め立てながら、その埋められた土地に植民地主義があったことを示す<アーカイヴ>という名の看板を立てることである。だから、私たちは書き続けなければならない。フェアネスが「最終的な、あるいは一時的、中間的なアウトプット」ではなく、歴史的なものでありつづけるために。

東京芸術祭ファーム ラボ プロセス発信記事について

東京芸術祭ファーム ファーム編集室のアシスタントライターが、東京芸術祭ファーム ラボのプログラムのプロセスに帯同。東京芸術祭ファーム ファーム編集室室長監修のもと、人材育成、教育普及の場である「ファーム」のプログラムについて、活動の実態、創作過程などを発信するものです。

ファーム編集室およびアシスタントライターについて

「いま、ここ」という現実の時間の中で展開される舞台芸術を、そのままの形で記録・保管するすべはありません。とはいえ、流れ去る「いま、ここ」を記録にとどめ、歴史と接続することなしに、表現の未来を開拓することはできません。創作プロセスや周辺のコミュニティとの関係に寄って立つ企画も増えつつある近年、舞台芸術をどのように記述し、記録していくか、アーカイブへの関心はいっそう高まりつつあります。もちろん、芸術的な事象や体験を、言葉で記述し、伝達しきることも不可能です。それでも「言葉で言い表せない」ものごとに「言葉」で向き合おうとすることで、私たちは、新たな思考や対話、さらなる創造へのステップを生み出してきたのではないでしょうか。
「ファーム編集室」は、舞台芸術が生み出され、観客(参加者)に届けられるプロセスに「書く」「記録する」ことを通じて参加し、より豊かな舞台芸術の文化を掘り起こし、育てるプログラムです(参加者は公募により選出)。

東京芸術祭ファーム ラボ ファーム編集室

室長:鈴木理映子

アシスタントライター:新井ちひろ、石川祥伍