【“見どころ解説”レクチャー】
『リビングルームのメタモルフォーシス』をみるまえに知っておくといいかもしれないいくつかのこと

2024年の東京芸術祭では、国外から来訪の方や、英語、韓国語、中国語などを母語とする方々を対象としたツアー事業を実施いたします。
そのうちの一つ、“見どころ解説”レクチャー付き 観劇ツアーでは、ご観劇の前に、作品の内容やあらすじだけでなく、作品の背景やコンセプト、また東京芸術祭や東京芸術劇場などについて詳しく解説するレクチャーを行います。
解説資料を読めば、作品をもっと楽しめたり、観劇が楽しみになるかもしれません!
※このテキストは英語に翻訳されることと事前レクチャーで用いられることを前提に執筆されたものです。

『リビングルームのメタモルフォーシス』をみるまえに知っておくといいかもしれないいくつかのこと

日本の現代演劇の多様性
 日本の舞台芸術には長い歴史があり、様々なタイプの作品があります。
伝統的なものとしては能、狂言、歌舞伎、文楽が知られていますが、本日これからご覧いただく作品は「現代演劇(gendai engeki)」と呼ばれるタイプの作品になります。
 実は、この現代演劇という言葉、外国語に翻訳するのがなかなか難しいのです。『日本現代演劇史』(大笹吉雄著)という全8巻の書物がありますが、その第1巻が「明治・大正編」であるように、日本語で現代演劇というと、イプセンやチェーホフなどの近代劇(modern drama)を始点にして 2024 年現在のものまでを含む、とても広い概念になっています。

 現代演劇を大雑把に分類すると、海外の劇作家の作品と国内の劇作家の作品に分かれますが、日本ではこのうち国内の劇作家の作品が上演される割合が大きいことが特徴です。これは日本では一人の人物が劇作家と演出家を兼ねて、その人物が「劇団」という自分のグループを作ることが創作活動の基本になっていることが関係しています。
 日本全国に一体どれだけの数の劇団があるのか、それを正確に数えることは難しいのですが、1000 を超えるとも言われています。これだけの数の劇団があるのですから、それぞれの作品の特徴はバラエティに富んでいます。このように日本の現代演劇には、伝統芸能のように決まった形がなく、多様なタイプの作品が存在しているのです。

チェルフィッチュとは?
 今日これからご覧いただくチェルフィッチュ(*)の主宰である岡田利規もまた、劇作家と演出家を兼ねた人物です。数多く存在ある日本の劇団のうち、チェルフィッチュは日本の現代演劇の中で最も海外で公演しているカンパニーの一つで、世界中の劇場やフェスティバルで高く評価されています。それはなぜでしょうか。岡田は役者と観客の想像力が劇場空間の中で結びつくことに演劇の可能性を見出している作家であり、その結果岡田の作品には必ずしも日本語が分からなくても、作品の本質がなぜだか・・・・その土地の観客に伝わるユニバーサルさがあるというのが私の考えです。チェルフィッチュの作品を観る際には、能や歌舞伎のように歴史などの前提知識を知っている必要はありません。むしろ観客には、想像力を膨らませて自由な発想で観劇する姿勢が求められます。

 先ほどこの作品は「現代演劇」であると書きましたが、それをさらに細かく分けると「音楽劇(music theatre)」というジャンルに入ります。今回の音楽劇はオペラ歌手が歌いあげるヨーロッパ発祥のオペラや、アメリカを中心に発展した歌とダンスで作品が進んでいくミュージカルのように、既に確立された形式を踏襲したものではありません。

この作品では岡田とロンドン在住の作曲家である藤倉大がコラボレーションを行い、演劇と音楽が対等に...存在する音楽劇を作り上げました。藤倉は三味線やリコーダー、尺八など色々な楽器の作品を手がけている作曲家で、その多くは演奏者とビデオ通話を行う中での「ちょっと弾いてみて」「その弾き方面白いね」といったフラットなコミュニケーションを発展させる形で作られます。この作品のリハーサルはコロナ禍だったこともあり、東京とロンドンをオンラインで繋いで行われました。岡田が書いたテキストを俳優たちが読んでいる間、藤倉はそのリハーサルを観ながらその場で作曲し、そしてロンドンから届く出来たての音楽に合わせて、俳優たちは動きを試してみる、というコミュニケーションを繰り返しながら作品が創作されました。

注目してみるといいかもしれない3つの視点
 この作品には特に決まった見方はありませんが、私がここに注目してみるといいかもしれないと考える3つの視点をご紹介します。
 1つ目は<空間>です。このあと劇場に入ったら、舞台上の空間をよく観察してみてください。開演時間を迎えると、演奏者が入場し、そして俳優が入場します。音楽の演奏が始まり、俳優がセリフを話しはじめると、その空間はどのように変わっていくでしょうか。今日ご覧いただくシアターイーストは、舞台と客席の距離が近いことが特徴です。その利点をぜひ生かして、舞台空間の細かな変化をじっくりとご覧ください。

 2つ目は<動き>です。まずは俳優の動きに注目してみてください。チェルフィッチュの作品では俳優が自分自身の想像によって自然に生み出された動きが用いられることが多いのですが、俳優が何を想像しているかは観客にはわかりません。ですので、その動きの元になっている答えを探そうとする必要はありません。その後は、演奏者や舞台上にあるモノの動きにも注目してみてください。何かが少しずつ動き出すかもしれません。

 最後の3つ目は<溶け合い>です。これは1つ目の<空間>と2つ目の<動き>をバラバラなものとして捉えるのではなく、2つ合わせて1つのものとして見てみると、何か面白い発見があるかもしれませんというご提案です。この作品は3つのパートからなりますが(場面の切り替わりは字幕で表示されますのでご安心ください)、第1部では俳優と演奏者は別々に存在しているように見えます。それが第2部、第3部と進むにつれて、舞台空間の後ろにいた俳優が、舞台空間の前方にいる演奏者の方へと進んできます。この演劇と音楽の溶け合いにも注目してみてください。俳優と演奏者は別々の空間にいるのでしょうか。それとも同じ空間にいるのでしょうか。その感じ方は観ている方によって異なるものになるでしょう。

 以上の視点はあくまでも私なりのご提案であって、この作品には決まった見方や答えはありません。チェルフィッチュの作品の特徴としてユニバーサルさを挙げましたが、これからの 90 分間は慌ただしい日常生活から少しだけ離れて、劇場空間というある種の<宇宙>にダイブして、そこで流れる時間の移ろいをじっくりとお楽しみください。

  • (*)チェルフィッチュとは「自分本位という意味の英単語セルフィッシュ(selfish)が、明晰に発語されぬまま幼児語化した造語」(カンパニープロフィールによる)。

執筆

横堀応彦 YOKOBORI MASAHIKO

ドラマトゥルク、舞台芸術研究者。跡見学園女子大学マネジメント学部准教授。専門は現代の日本とドイツ語圏の演劇におけるドラマトゥルギー研究および劇場を取り巻く環境の研究。ドラマトゥルクとして参加した作品にオペラ『夕鶴』(指揮 辻博之・鈴木優人、演出 岡田利規)、『リビングルームのメタモルフシス』、(作・演出 岡田利規、音楽 藤倉大)等。