『マライの虎』劇評:身体はアーカイブが記録できないものを記憶する

テアター・エカマトラ『マライの虎』が上演された2018年に書かれた劇評を掲載します。
上演映像を観るだけではわからない、劇場の持つ性質、劇中劇で演じられる作品の背景や、シーンの持つ意味を作者の体験を交えて丁寧に書かれています。

作品とトークをもっと楽しむためにぜひご覧ください。

『マライの虎』: 身体はアーカイブが記録できないものを記憶する

執筆:コリー・タン

ドラマセンター・ブラックボックスは、シンガポール国立図書館の5階にあり、さまざまな参考図書や歴史的資料のフロアに囲まれている。そこに行くには、4階のアジア映画アーカイブを通らなければならない。アーカイブは、図書館やその収蔵物のように、変わることのない安定したものであり、紙やフィルムで永遠に再読・再視聴可能だと考えらえている。対して、パフォーマンスは、ライブであり、はかないものとして、俳優の身体や観客の記憶の中にしまいこまれ、決して元通りに再現されず、そのつど新しく作り直さなければならないものとされる。

しかし、アーカイブは本当に歴史の安定した記録なのだろうか。アーカイブされたものがパフォーマンスを通じて再び動き出すことはないだろうか。そして、もしそうだとしたら、歴史は上演によって作り直すことができるのではないだろうか。これこそ、ドラマセンター・ブラックボックスで上演された、テアター・エカマトラ創設30周年を記念する傑作『マライの虎』が中心的なテーマとして投げかけた問題である。この作品は演劇の中の映画内の演劇であり、映画批評であり、歴史と表象について巧妙に演劇の形で表現された学術論文なのだ。私は最初に観た際には言葉を失ってしまい、本作の野心の大きさについて書くためには2回目を観なくてはならなかった。

本作の主題は、1943年に制作された日本のプロパガンダ映画『マライの虎』のリメイクである。アーカイブに埋もれていた中から引き出されたこの映画は、映像のフレームが常に揺れ、ひどく音割れしている。この戦時中の大作は、実在の日本人戦死者、谷豊の半生に大まかに沿ったものである。福岡生まれ、マレー半島クアラ・トレンガヌ育ちの理髪師だった谷豊は、やがて匪賊の首領となって恐れられ、卑劣なイギリス当局やそれに共謀する中国人を倒すなど、ロビン・フッドのような英雄的行為をおこなう。

Photo: Monospectrum Photography

ブラックボックスの暗がりの中で最初に聴こえるのは、この映画の主題歌(「ハリマオー」という合唱)であり、妙に耳に残る。同時に舞台上の3枚の可動式スクリーンに色あせた白黒の映像が映し出される。2人のパフォーマーがステージに出てきて、よろめきながら、すすり泣き、互いの服をつかみあい、きれいに英語に訳された映画のセリフを唱え、血まみれの谷豊が手下のサリムにあえぎつつ死に際の言葉を投げかけるシーンを真似る。

照明がつくと、それが2人の俳優、アドナン(ファレズ・ナジッド)とライ・テック(レイ・ポー)が『マライの虎』の低予算リメイク版のオーディションを受けていたのだと分かる。人気女優のファリダ(シティ・ハリジャ・ザイナル)によって、2人はすぐに日本人とシンガポール人の混成キャストに加えられることになる。それから間もなくこの2人の相手となる日本人の喜劇俳優、ユーダイ“You Die”(田中佑弥)と、「being a poem on paper」の実演でシンガポール人チームを困惑させるポストドラマ的なパフォーマー、サイコ“Psycho”(北川麗)が登場する。そして、それぞれ異なる演劇的背景をもつ5人のパフォーマーが、ブラックコメディ的な方法で『マライの虎』のリメイクを試みることで、それぞれの国の過去と未来、そしてそれぞれが記録し記憶した歴史ナラティブの相違に悩まされることになる。

Photo: Monospectrum Photography

テアター・エカマトラは、30年の歴史を通して、マレー語を用いたパフォーマンスを実践し、マイノリティの声にコミットしたパフォーマンス実践とは何かを問いつづけている。マレーの多言語劇団としての発展によって、これまで参加してくれた多くの演劇人たちを通して、アイデンティティ、土着性、言語、宗教、家族、ジェンダー、そしてそれらの構築過程の検証を演劇の現場においておこなってきた。その作品は常に緊急性と現代性を感じさせ、たとえ時折空回りして失敗することになったとしても、決して臆することなく刺激的、あるいは実験的なアプローチを取ってきた。本作の劇作家のアルフィアン・サアットは、テアター・エカマトラに最も多く戯曲を提供しているひとりであり、これまでの作品には『Nadirah(ナディラ)』(2009年)、『Kakak Kau Punya Laki(あなたの姉の夫)』(2013年)、『GRC(Geng反論内閣)』(2015年)など、さまざまな受賞歴をもつ作品があり、そのいずれもが改宗、テロリズム、シンガポールの政治状況といった問題について、既成概念やありきたりの表象にくさびを打つものとなっている。

『マライの虎』もまた大変に知的な作品であり、まさしくこの系譜に連なる。アルフィアンは、演出家のファレド・ジャイナル、ドラマトゥルクのショーン・チュア、そして素晴らしいキャストとともに、アーカイブが記録できないことを身体が記憶するというテーマの、ヒステリックなほど愉快で、きわめて衝撃的な演劇作品を作り上げた。この演劇チームは、アーカイブされた遺物が出発点となりうること、「パフォーマンスは残り、記録は消えること、アーカイブはパフォーマンスし、ドキュメントはパフォーマティブであること」(Clarke et al, 2018, p.11)を知っていた。そして、劇中劇という形式によって、パフォーマーたちに問題となっている死者を蘇生させ、パフォーマー自身のイメージで再創造させることができたのだ。映画『マライの虎』はほぼすべて日本人俳優によって演じられており、マレー人の役にしても、現地のマレー人を日本の大義に取り込むために、日本人が茶色い顔にして奇妙な名前の役を演じている(エカマトラの演劇では、アドナンが卑屈で出っ歯の刑事バテバウと、谷豊の家の献身的な友人だがおそらく使用人であろうサリー——そう、インドの伝統的な衣装と同じ名前だ——を演じる)。

舞台上では、出演者たちがマルチカルチュラルなカンパニーとして、映画『マライの虎』に最低限必要な歴史的正確さを与えようと決意する。それがいい上演にするための決定打だと。しかし、ファリダ、アドナン、テック、ユーダイ、サイコにそれぞれ演じる役を割り振るにつれ、それが思ったほど容易ではないことに気づく。テックは、「中国人」共産主義者の陳文慶という単純な悪役を演じることに抵抗を覚える。中国人の役は中国人俳優が演じるとして、過去の文化的盗用を「修正」しているにもかかわらずだ。テックは、サングラスをかけ、水袖をヒラヒラさせるというステレオタイプのキャラクターを、抗日レジスタンスの共鳴者として演じるために、より多くの文脈を要求する。しかし、だからといって、すべての登場人物に充実した背景情報が必要なのだろうか。そうしたらどこまで映画が長くなるだろうか。すなわち映画『マライの虎』をどこまで残し、そしてまた、どこまで修正すべきなのか?

Photo: Monospectrum Photography

エカマトラの『マライの虎』が指摘するのは、単に映画における表象の問題のみではない。シンガポール演劇における言語の境界線と、シンガポールのインターカルチュラリズムの試み(劇中でオン・ケンセンについてお決まりのジョークが語られる)、そして私たちが誇るようになった多文化・多言語演劇についても取り上げる。ファリダとアドナンは、「中国演劇」がプライドを持っている技術的な正確さが、演技を平板で無感動なものにしていると笑い飛ばす。一方、テックは「マレー演劇」ではパフォーマーが感情を捉えよう(tangkap)とするあまり、すべてのシーンがメロドラマに陥ってしまうのだと過剰な感情表現に苛立つ。こうしたシーンのメタ演劇性は、安易な内輪ネタや、地元の演劇シーンの内情に詳しい観客の共感を得るための怠惰な近道として用いられることが多いが、本作のクリエイティブ・チームは、ここで確実に取れる笑いではなく、もっと大きな文脈を狙っている。

表象の言語、そして言語の表象を扱う遊び心にクリエイティブ・チームの喜びが感じられる。別のシーンでは、サイコが谷豊の幼い妹・静子を演じ、そして静子の運命を決することになる、中国人が引き起こした暴動において、彼女は母親を呼ぶ(「おかあさん!」)。役者たちはまず日本語でこれを演じるが、静子の母親役を演じるマレー系女優のファリダは、「母語」で演じないとトラウマ的な深い感情が理解しづらいと言い張る。彼女はサイコに“mak!(マレー語でお母さんの意味)”と呼ぶように言う。その結果、ファリダは「日本人の悲しみ」を演じていた厳粛で抑圧された形式を捨て去り、代わりに「マレー演劇」の過剰な感情表現をはめこんで、セリフさえ変更し、つまり彼女が自分の知っている方法で悲しみを壮大なスケールで演じたため、きわめて悲劇的でありながらとてつもなく滑稽なシーンが生まれた。

このように日本とマライに関わるひとりの登場人物について、そして解釈の分かれる歴史をめぐって、シンガポール人と日本人が争う中で、異文化間の摩擦が積み重なっていく。私たちは皆それぞれ、自分たちの歴史について本当は何を知っているのだろうか。本当は何が起こったのか、あるいは本当はどうあってほしかったのか、そして誰の物語が優先されているのか、また誰の物語が歴史書の余白に書き込まれているのか。

エカマトラの『マライの虎』では、出演者が政治的な専門用語を用いて社会正義を掲げ、登場人物がどう振る舞うべきかを決め、あるいはマレー人を「熱帯の原住民」をただ歌って踊るだけの生産性のない褐色の体として描くことを不快とし、そして映画版で「ラササヤン」のような愛唱される民謡を反英感情のために用いたのは下品だとみなしたため、映画の再現だったはずの劇はオリジナルからどんどん離れていく。シンガポール人出演者は、日本人出演者を残酷な軍隊の役に仕立て上げ、出演者たちが関わったこともなければ理解することもできない行為の責任を負わせようと次第に迫っていく。ふと静かな瞬間に、ユーダイが、シンガポール人は日本がアジアをヨーロッパの植民地主義から解放する手助けをしたと思っているかどうか訊ねる。彼はそのとき英語を使っている。そう、私たちを植民地支配していたイギリスの言語である。本作において英語で話されたセリフだけは、翻訳されず、字幕にならない。つまり理解できて当たり前のものとされている。

Photo: Monospectrum Photography

『マライの虎』は、出演者が言語を通じた意味の再構築によって遊ぶだけではない。ローテクとハイテクの両方で映画版の形式そのものを風刺している。低予算的な簡素な舞台美術のため、出演者は筋書きを語るうえで自分の身体に頼る分が大きくなる。説明的な動きをしたり、舞台装置(ココナッツの木、鳥、岩、飛行機、列車など、どんなものでも)の代わりをしたりする。しかし、もう一方で、マルチメディア・デザイナーのエリック・リーによる非常に巧妙な介入もある。舞台上のパフォーマーをiPhoneで撮影した、ぶれた映像が映画『マライの虎』の静止画に重ねられ、あるいは差し替わる。過去のコンテクストに現在のパフォーマーを挿入したり、過去のシーンについてすでに明らかになった全ての結果を踏まえて再コンテクスト化したりと、コンテクストが極めて重要であることをこの作品は強調している。最初の場面、アドナンとテックがオーディションで演じたシーンは、のちに新たな意味が生じる。それは映画『マライの虎』が、ターゲットとする日本人とマレー人のさまざまな観客とどのようにつながろうとしたか。意義のある生、あるいは意義のある死という概念をどのように伝えようとしたかという点である。

私はまだ大事な件に手をつけていなかったのだ。それは、あいまいで不安定な歴史が、いかに静的なものとして固められ、平板で分かりやすいものへと均され、ファクトや真実として国立図書館のような場所から取り出しやすい形にされるかという、エカマトラの『マライの虎』が投げかける中心テーマである。私はラストに近いシーンで、長テーブルが両側に1台ずつ向かい合うように並べられているという設定から、日本軍に対するイギリス軍の降伏の場面だと最初は思った。子供の頃、社会科の遠足で、シンガポールの「難攻不落の要塞」であるシロソ砦の降伏室にある幽霊のような蝋人形を見たことで、その場面を頭に叩き込まれたのだ。私たちが学ばされた歴史は、やがて私たちの記憶と同義になる。『マライの虎』のその場面はイギリスの降伏ではなかった。別の誰かがまったく別のものを諦めさせられた場面だった。歴史のひとつの可能性に過ぎないことを善か悪か、イエスかノーかの二項対立の答えに当てはめようとする試みを諦めさせられたのだ。実際、そんな確かな歴史などないのだから。

最近、私はジョグジャカルタに行って、共に仕事をしているインドネシアのパフォーマーのコレクティブから、“alih tubuh”(文字通り、「身体の取り替え」である)という新しい言葉を学んだ。“alih tubuh”とは、ある役が、あるパフォーマーの身体(インドネシア語でbadan)から次のパフォーマーの身体へと、静的なジェスチャーや特徴のセットとして受け継がれるだけでなく、その役の新しいホストである身体、つまり共同創造者の霊的、感情的、心理的な状況によって、新たな生命を与えられるという意味である。私たちは身体を通して歴史を受け渡していく。私たちの一部がそれに付着して、ひとつの世代から次の世代に移り変わる。『マライの虎』の場合は、登場人物からパフォーマー、そして観客へと。身体も他とは異なるアーカイブであり、記憶しながらもリメイクするのである。

私の身体はすでにこの舞台を忘れつつあり、誰がどの台詞をどのように言ったか、なぜ言ったかなど、ノートに書いたことを解読しようとしている。しかしすでに私の身体は、書きながら、この舞台を観て笑ったり泣いたりしたときにお腹やのどで感じたことを思い出しはじめている。シンガポールへ進軍する日本の軍歌の背筋を凍らせるような合唱の中、マレーの伝統衣装に身を包み、ソンコ帽の下から私たちを覗き込む谷豊の目を思い起こす。日本軍の進軍は戦争を引き起こし、それから占領期が始まる。私のシンガポール人の祖父は仕事に遅れたおかげで、偶然にも死の収容所に送られずに済むことになった。マレーシア人の祖母は男の子の格好をしていたために奇跡的にレイプから逃れた。私はこの暗い劇場に座り、私の人生が始まる前に私自身の歴史が開始するのを見ていた。

  • 参考文献 Clarke, Paul, Simon Jones, Nick Kaye, and Johanna Linsley, eds. Artists in the Archive: Artists in the Archive: Creative and Curatorial Engagements with Documents of Art and Performance. London:Routledge, 2018. Drury, Jackie Sibblies. We Are Proud to Present a Presentation about the Herero of Namibia, formerly known as South West Africa, From the German Südwestafrika, between the Years 1884 - 1915. London: Bloomsbury, 2012. Phelan, Peggy. Unmarked: The Politics of Performance. London and New York: Routledge, 1996. Powell, Benjamin D., and Tracey Stephenson Shaffer. “On the Haunting of Performance Studies” in Liminalities:A Journal of Performance Studies, 5:1(April 2009). Taylor, Diana. The Archive and the Repertoire: Performing Cultural Memory in the Americas. Durham and London: Duke University Press, 2003. 映画『マライの虎』(1943年)はYouTubeで視聴可能である。

Copyright: www.artsequator.com

原文:https://artsequator.com/review-tiger-of-malaya-teater-ekamatra/

『マライの虎』(テアター・エカマトラ/2018)を巡るトーク

日程:10月21日(土)、10月27日(金)
会場:東京芸術劇場 シンフォニースペース
料金:無料(要予約)

トークゲスト:
[10月21日]
貴志俊彦(京都大学 東南アジア地域研究研究所教授)

[10月27日]
アルフィアン・サアット(劇作家)
モハマド・ファレド・ジャイナル(演出家)
シャーザ・イシャック(クリエイティブプロデューサー)
滝口健(ドラマトゥルク、翻訳者)

司会:
長島 確(東京芸術祭 FTレーベルプログラムディレクター)
河合千佳(東京芸術祭 FTレーベルプログラムディレクター)

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