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東京芸術祭 2022『嵐が丘』ステージレポート
演劇ライター/岡﨑 香
鋭敏なセンスでそのシーンの芯を掴み、独自の視点と大胆かつ柔軟な発想、マイムの動きをベースにしたユニークかつ精緻な身体表現と構成力で、オリジナル作品の創作のみならず、カミュの『異邦人』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』といった名作も取り上げてきた小野寺修二。彼が東京芸術祭のメインプログラムである野外劇を演出する、それもエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を手掛けるなんて、楽しみ以外の何ものでもない。雑多で喧騒にまみれた池袋の街に、亡霊彷徨う荒野の愛憎劇をどう立ち上げるのだろう?
と、勇んで公演初日を観に行った私は、野外劇『嵐が丘』の期待を上回るクオリティと面白さ、そして清々しいまでの思い切りの良さに、すっかり魅了されてしまった。すごいなあ。グローバルリングシアターをここまで見事に使って、あの『嵐が丘』を70分で表現してしまうなんて! キャストの身体と言葉から立ちのぼってくる物語世界にすーっと引き込まれ、完全円形ステージの対面に座っている観客の姿も、その向こうのカフェやビルや煌々と光る看板も、まったく気にならない。途中でぱらりと降ってきた雨粒さえも、演出のように思えてしまったほどだ。
1847年に英国で出版された『嵐が丘』は、ブロンテ姉妹(エミリーの姉シャーロットと妹のアンも作家)が住んでいたイングランド・ヨークシャーの人里離れた荒野を舞台にした長編小説。そこに建つ「嵐が丘」と呼ばれる屋敷の主に拾われてきた孤児ヒースクリフと、彼と同じ魂を持ち、強く惹かれ合いながらも、丘の向こうのリントン家の息子と結婚する主の娘キャサリンを軸に、二世代にわたる愛と憎悪と復讐が描かれている。
翻訳にもよるのだろうが、この小説、分厚いうえに、なかなかどうして読みづらい。高校時代に映画を観て原作を読みたくなり、古本屋で文庫本を買った私などは、途中で何度くじけそうになったことか。物語は、リントン家のものだった屋敷を借りた男が、「嵐が丘」に住む不機嫌で荒々しい大家のヒースクリフらに興味を持ち、彼らをよく知る老家政婦のネリーから、そこであった出来事を聞く……というスタイルで進んでいくのだが、語り手が途中で変わったり、ネリーの私情が多分に含まれていたりするのだ。とはいえ、奔放でエネルギーの塊のようなキャサリンには心惹かれた。まあ、嫉妬と復讐の炎を執拗に燃やすヒースクリフや、荒々しく飛び交う罵倒の言葉には、若干胃もたれ感も覚えたけれど。
小野寺は、そんな原作からポイントとなるシーンや言葉を抽出。それを再構成し、建て込まれた舞台セットもなければ、演壇もない、360度ぐるりと観客に囲まれた何もない空間に立ち上げた。刻々と暮れゆく空の下、豊島区の夕焼けチャイムが鳴ると、照明に照らされたグローバルリングの中央部に四方八方からキャストが姿を現わし、まずは、「嵐が丘」の大家を男が訪ねる冒頭のシーン。キャストは登場人物を演じるだけでなく、小道具を使って窓枠などを表現したり、家具を運んだり、犬になったり……その流れるような動きとチームワークに目を奪われているうちに、観客はまんまと「嵐が丘」の世界に引き込まれている。まさに小野寺マジック!
観劇体験のハードルを本気で下げようという心意気にもシビれた。東京芸術祭の野外劇プログラムは、演劇を観たことがない人にも気軽に足を運んでもらえるように、ワンコイン=500円という素晴らしく破格なチケット料金になっているのだが、今年は500円席に加えて、なんと100円席が登場。なおかつ、全方位から鑑賞できる作品づくりをしたことで、通りすがりの人も観覧席の間などから、いくらでも立ち見ができる状況になった。野外劇をやるからには、誰でも、どこからでも、好きに観られるものにしたい……そう考えるのは簡単だが、実現するのは意外と難しい。小野寺の胆力と技量に、ほとほと感心してしまう。
もちろんそれが可能になったのは、その発想や演出にしっかり応えた総勢15名のキャストと、スタッフワークの力があってこそ。雨滴で滑りそうな硬い地面を縦横無尽に移動しながら、動きとセリフで次々と場面を紡ぎ出していくキャストの表現力に想像力を大いに刺激され、そこに浮かぶ登場人物たちの戸惑いや歓び、絶望や悲しみに心を動かされた。
中でも圧倒的な存在感を放っていたのは、すでに何本もの小野寺作品に出演し、全幅の信頼を寄せられている片桐はいりだ。開演前からカートを押し、何やら喋りながら観覧席の間や外側を徘徊。作品と観客、劇世界と外界=街を繋ぐ役割を果たしつつ、劇中では主に老人役とヒースクリフの声を担当し、カンパニーを牽引していた。また、若いキャストの瑞々しい佇まいやダンスも印象的だった。人々が常に行き交う街なかで、視線と喧騒を浴びながらリハーサルをしていると、自ずと胆力が鍛えられるのかもしれない。それもまた、野外劇のひとつの醍醐味に違いない。
そして何より感動したのは、これはまぎれもなく『嵐が丘』だ、と実感したことだ。薄っぺらいダイジェスト版とはまったく違う。抽出したエッセンスを純度高く精製し、新たな光を当てて結晶を浮かび上がらせたような作品、とでも言ったらいいだろうか。途方もなく強い絆で結ばれた二つの魂、愛と呼ぶにはあまりに苛烈でひたむき過ぎるヒースクリフの思いが胸に響いて、最後には涙してしまった。
それでいて、カーテンコールが終わり、キャストが去ってしまえば、さっきまで熱いものが渦巻いていたグローバルリングの中央には、ただ秋の夜の冷たい空気が漂っているだけ。すべてが、どこからともなく集まってきた亡霊たちが見せたひと時の幻のようにも思え、そういう意味でも非常に面白い演劇体験だった。
余談になるが、様々な作品の振付・ムービングも手掛けている小野寺。その仕事を目にするにつけ、彼が日本の演劇界にもたらしたものの大きさを感じずにはいられない。いわゆるダンスとはまた違った文脈を持つ身体表現の面白さと可能性、その抽象性と具象性、それが作品に与える彩や陰影。優れた身体表現や抽象表現は、物事の核心を浮かび上がらせ、固くなった頭をほぐしてくれる。ぜひまた小野寺が手がける、大胆で繊細な野外劇を観てみたいものだと思う。
(2022年10月17日観劇)
野外劇『嵐が丘』
期間:10月17日(月)〜26日(水)
場所:GLOBAL RING THEATRE〈池袋西口公園野外劇場〉
言語:日本語
料金:全席自由席(税込)
・ファーストエリア 500円
・エンドエリア 100円
プログラム詳細:https://tokyo-festival.jp/2022/program/arashigaoka
作:エミリー・ブロンテ 演出:小野寺修二
訳:小野寺健「嵐が丘(上)(下)」/光文社古典新訳文庫
出演:王下貴司、久保佳絵、斉藤 悠、崎山莉奈、菅波琴音、竹内 蓮、丹野武蔵
鄭 亜美、辻田 暁、富岡晃一郎、中村早香、西山斗真、塙 睦美、宮下今日子
片桐はいり