『紫気東来―ビッグ・ナッシング』
観劇後座談会レポート
観劇後座談会レポート
前日の『汝、愛せよ』座談会に続き、11月7日には『紫気東来―ビッグ・ナッシング』観劇後座談会が東京芸術劇場ミーティングルーム3にて開催された。司会進行も前日に続いて藤崎周平先生。ほぼ同じメンバーにより、作品に対する意見交換がなされた。
2019年度の東京芸術祭ワールドコンペティションで最優秀作品賞を受賞した『紫気東来―ビッグ・ナッシング』は、中国の戴陳連(ダイ・チェンリエン)の作だ。影絵を使い、モノトーンの絵画を一枚また一枚と見せていくような手法には学生たちも驚きを隠せない様子。座談会では「この作品にどう向き合うべきなのか」といった部分にまで踏み込んだ、率直な議論が交わされた。
2019年度の東京芸術祭ワールドコンペティションで最優秀作品賞を受賞した『紫気東来―ビッグ・ナッシング』は、中国の戴陳連(ダイ・チェンリエン)の作だ。影絵を使い、モノトーンの絵画を一枚また一枚と見せていくような手法には学生たちも驚きを隠せない様子。座談会では「この作品にどう向き合うべきなのか」といった部分にまで踏み込んだ、率直な議論が交わされた。
参加者(日本大学芸術学部大学院): 上原諒子さん、嶋孝脩さん、藤江露沙さん、徳永伸光さん、崔圭桓さん、李韓篠さん
「夢と現実」…曖昧な境目を漂う楽しさ
──昨日の『汝、愛せよ』と違って、個人の夢や記憶が影絵というビジュアルで表現されており、特にストーリーがなく、とっかかりが難しい作品でしたが…まずは中国出身の李君に作品の背景を聞いて、それから話を進めていきましょう。この作品は『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』という9世紀の唐の時代の作品が背景になっていて、そこに戴さん個人の記憶や生まれ育った地方の歴史などが加わっているとのことですが?
李「紫気東来」は杜甫の詩にあるもので、「縁起がいい」という意味ですが、内容はとても暗い話です(笑)。『酉陽雑俎』は雑記式の小説ですが中国でもあまり知られていなくて、似たような小説では『聊斎志異(りょうさいしい)』の方が有名です。主にはオバケの話ですが「雑俎」なので、道教、仏教、歴史、天文、人々の生活など色々な要素が含まれていて、ただのオバケ話ではありません。また、中国の文学はその多くに皮肉が含まれています。その話は昨日もありましたが、『酉陽雑俎』もそうです。この劇ではクライマックスで蛇が人間の女になり、塔から出てきた化け物たちが復讐をする部分が『酉陽雑俎』から来ていると思われます。
──戴さんの出身地である紹興市というのは紹興酒の産地なのかな? 上海の近くですか?
李そうです。有名人がたくさん出ているところで、劇の中にも出てきた魯迅もその一人です。
──川を遡っていく場面など、南国の空気が漂ってくる感じがしました。戴さんの故郷への思いも反映していたのかなと思います。藤江さんはいかがですか?
藤江中国の作品を見ているという感じはあまりしなかったです。影絵だけど影絵じゃないものを見せられているようで、煙が出てくるところとか、本人が影絵の中に入っていくところとか、美術的な要素に目が行きがちでした。
嶋僕もドラマを見ている感じはしなかったです。観客に解釈が委ねられている作品で、つまりそれだけ解釈の振り幅があるのだろうけれど、解釈するという作業は作り手の思考に近づく作業でもあり、つまり、作者と同じクリエイトをしないといけないわけで、この作品はエンタメとは違う知覚をしなければならないと思いました。
──影絵というのは、たとえば結婚式などのときに庭で上演するなど外でやるものだから、やはり暖かい南の地域のものなのだろうね。崔さんはどうでしたか? 昨日と違って言葉はなかったけれど?
崔ひとことで言うと、1時間の拷問でした(笑)。もともと影絵というのは屋外で皆でワイワイ言いながら見るものなのに、作者が伝えたいことが影絵という手段で表現されて、それを映像で静かに見るのはまさに拷問。芸術は誰のためのものなのか?という根源的なことを考えざるを得ませんでした。
徳永拷問まではいかないけれど、僕もやっぱり怖いなと思いました。観客はずっと息を詰めていないといけないし…、そんな中で、序盤で僕の後ろにいたおじさんがいきなりゲップをしたんですよね。彼はあの時いったい何を思っていたのだろう?と考えてしまいました。また、果たしてこれは映像で受け止めきれる作品だったのかな? やはり生でないと僕らはわからなかったのかも、とも思いました。
上原無音で始まったかと思えば突然音が聞こえてきてびっくりしたり、戴さんが動いているのに足音が聞こえなかったり。むしろ客席の音の方に集中してしまうのも不思議な感じでした。本人が影絵の中に入っていったりもするし、なんだか境目が曖昧で、ずっとふわふわした感じでした。
──境目が曖昧なのが、この作品の面白いところかもしれない。「夢と現実」とか「私とあなた」とか。今ここにいるはずの自分が曖昧になってくる感覚は、僕はお芝居を見ていてよく感じるのだけど、今日も自分があの世界の中に溶け込んでしまう感じがあって、気持ち悪いんだけど、どこか気持ちよかったりもするんだよね。
演劇というより絵画、劇場より美術館が似合う作品?
李僕は映像になってしまったことで、この作品の魅力の30%ぐらいが失われたような気がします。なぜなら、この作品で重要なのは内容以上にパフォーマンスだからです。そこには3つの中国伝統芸能が使われていて、一つ目が影絵、二つ目が切り紙の技術、そして三つ目が戴さんが専門にしている水墨画です。水墨画において何が伝わるかは見る人に任せるのが中国の美学思想であり、絵の空白部分は見る人のためにあるのです。映像で見るとドキュメンタリーのような感じを受けますが、生で観るとまた違うと思います。舞台芸術というより美学の思想が強い作品です。そして、芸術性が高いゆえの「気持ち悪さ」もありますね。僕は昨日見ましたが、夜に悪夢を見ました!
──今の話に対してどなたか意見のある人は?
嶋受け取る側に解釈が委ねられるという意味では、絵画や詩にもありますが、これらは離脱が可能です。でも、演劇は離脱ができないのが良いところでもあり悪いところでもある。知覚対象として離脱したいのに劇場空間の拘束されてしまう。だから拷問になってしまったのかもしれない。
藤江空白を埋めるという意味では、最後に塔から何人もクチバシのある人が出てきて、彼らに取り囲まれた人が骸骨になっていったところで思い浮かんだのは「鳥葬」です。骸骨になった彼は作者自身でしょうか? 彼が周りの人からストレスを与えられている様を描いたのかなと思いました。
──この作品には鳥がたくさん出てきますが、これは『酉陽雑俎』と繋がっているのかな?
李『酉陽雑俎』にはないです。戴さん自身の現実ではないでしょうか。中国では鳥は昔から批判的な意味で「ちょっとうるさい」というイメージです。この作品ではメディアを表しているのかもしれません。中国の皮肉に「見てもわからないものが芸術」という言葉がありますが、その意味でまさにこの作品は「芸術」です(笑)。そして、内容よりも表現方法が重要なので、劇場よりも美術館でやる方がもっと合う気がします。
──たしかに、1枚の絵を見ているような感じがあったよね。僕は、戴さんの描く自画像を見ているようで「あなたの自画像は?」と問いかけられているような感じがしました。途中で、おばあちゃんの肖像が色々に変化していくところが一番面白かった。僕もああいう感じの夢を見るし、まるで自分の夢が具現化されたようで、これから見る夢が楽しみになりました。皆さんは自分の夢を作品にしたくなりませんか?
徳永夢とは違うけれど「無言」が、今自分がやっているマイムと合わさって、「『ない』は『ある』のだ」という言葉を思い出しました。
上原おばあちゃんの顔は、同じ絵なのにちょっとした影の変化でどんどん表情が変わっていって、笑っている風に見えたり、怒っている風に見えたり。まるで何か隠されていたものが表れていくようでした。
崔甘いものが体にいいのか、苦いものがいいのか? 『鬼滅の刃』とこの作品と、どちらが私の人生に良い影響を与えるのだろうかと考えます。それでも「これが作品になるのだ」ということ、信念を持って作品を作る人がアーティストなのだということで、戴さんからは勇気をもらいました。昨日のボノボはチームで創っているけれど、戴さんは一から十までひとりで創っている。そうすることで、戴さんの人間性が現れる。そんな戴さんに賞を与えた、東京芸術祭の審査員はもっと勇気があると思います。
──クリエイションは戴さん一人ではないと思います。演出・出演、舞台美術・照明・音響プランは全て戴さんだけど、ドラマトゥルグには由蜜(ヨウ・ミー)さんというが入っています。ただ、この作品で描かれているのは本当に戴さん個人の世界だということは言えますね。
ダイさんはとても「純粋」なアーティスト
──では、そろそろまとめに入っていきましょう。皆さん、言い残した感想をどうぞ。
嶋村上隆さんが「芸術家とは『これはこういう芸術なのだ』という論文が書ける人である」と言っていますが、それは一理あると改めて思いました。僕は、今日の影絵は文楽に近くて、古典と現代の両義性を備えている作品だと感じます。そう言った「見方」を提示することも、東京芸術祭のようなフェスティバルの意義だと思います。
藤江「無音」について。日本では客席で音を出すことに敏感ですが、たとえばこの作品を観客同士でコミュニケーションを取りながら見たらどうなるのだろうと考えます。中国や韓国、あるいはヨーロッパの劇場で見たらどうなるんだろう?と想像してしまいました。
李僕はこの作品の「音」に対しては最後まで違和感がありました。
上原客席に椅子がなかったのも不思議で面白かったです。実際の上演形態に近づけたとのことでしたが、観客はもっとたくさん入っていて互いに体を寄せ合って観ただろうし、また違う空間だったのではないかと想像します。あとは、私も今晩は悪夢を見るのかなと心配です(笑)。
徳永わからないものはわからない。理解しようとするのもいいけれど、ゲップのおじさんのような向き合い方もありかなと思います。僕はゲップのおじさんにも思いを巡らせたいし、彼のような人ためにも演劇をやっていきたいです。
崔このような不親切な作品に対してどうやって向き合うべきか、これからの僕の課題です。
李アーティストとしての戴さんはとても純粋な人です。現代の芸術は経済やエンタメと深く結びついているけれど、戴さんは自分の表現したいことをひたすら形にし続けている人。その意味で戴さんはとても純粋だし、悪夢は見せられるけれど(笑)、この作品はとても素晴らしいと思います!
──それは確かに悪夢かもしれないけれど、戴さん自身の「白日夢」を観ているような作品でした。それが、李君が指摘したような中国的な技法の中で、影絵として示されていく。影絵が持っている存在のリアルさと曖昧さが面白かった。ただ、残念だったのは、本来であるなら、ここにいる作者が、向こう側の影絵のスクリーン内に出入りしていく部分も含め、基本的には正面から撮った映像になっていて、舞台上の距離感が平面的に見えてしまったことがあります。それはこの作品の核たる部分なので、それを、映像作品に置き換える演出が必要だったのではないでしょうか。そのあたりのことが、やや不親切に感じられる要因になったのかも知れません。
文:中本千晶(ライター)