『汝、愛せよ』観劇レポート
近年、メディアでも頻繁に取り上げられている人種差別やセクシュアルマイノリティーについての問題。目にする機会が増えたことで、自然と考える機会も増えてきたように思うが、それでも結局、どこか他人事のように考えている人が大半だろう。自分が当事者でない場合、自分の身近にそういった人がいなければ、リアルな想像をするのは難しいことだ。しかし、この作品は、差別はそんな特別なものではないと訴えているような気がした。差別は生まれるものではなく、そこにあるものだと私は受け取った。
差別の問題を私なりに言い換えると、そこにあるものを見るか見ないかの問題だということになる。差別という言葉が大きすぎるなら、もっと簡単な、範囲の狭い言葉に置き換えてもいい。要は、自分とは違う身体的特徴や思想を持った人を、人は敬遠する。なぜか。作中にあったように、怖いからだ。怖いから、自分はその人よりも優れていると主張したくなる。その人を動物のように考え、手綱を握りたくなる。自分のあずかり知らぬところで何かが起きるのを嫌い、全てを自分の視界に収めたくなる。もっと言えば、その人たちにとって神にも等しい存在になろうとする。そうして安心したいという気持ちは、誰しも少なからず持っているものだと思っている。それが個人レベルでは収まらず、団体や国家全体でそういった安心を得ようとすると、それが差別に繋がるのだと思う。
では、どうしたら差別はなくなるのか?私はこの問い自体が間違いだと思う。差別がなくなるなんてことはあり得ない。なぜならそこにあるものが差別だからだ。先入観と同じように、意図せず持ってしまうものだ。問題は、そこにある差別をどう扱うかだろう。差別をなくそうと声高に言えば言うほど、差別は存在感を増していく。作中の言葉を借りて言えば、気まずくなっていく。自称非差別主義の医者と話すのは気まずい、差別主義だと最初に言ってくれたほうが話しやすい。これは真理をついている。差別されている側からすれば、嘘や偽りの甘言より、本心がほしいのだ。自分たちはどう思われているのか。その素直な気持ちを知って初めて、両者が対等に腹を割って話すことができる。しかし、多くは本心よりも建前を語りたがる。それは自分の本心が醜く汚れていると本能的に悟っているからだ。だから綺麗事ばかりを並べている。そのおかげで、作中では文字通り腹を割られたわけである。差別をなくそうなどという傲慢は捨てて、まずは真摯に向き合うことが今の私たちに求められていることなのではないかと考えさせられる作品だった。