『ビッグ・ナッシング』観劇レポート
日本大学芸術学部演劇学科2年
川村真衣
 『紫気東来-ビッグ・ナッシング』を観て、作品に無限の可能性を感じた。
 この作品を観るまでの影絵のイメージは幼少児に向けての手遊びや、絵本を影絵で具現化した劇を自身が幼い頃に観ていた経験から子供向けの作品という印象を抱いていた。しかし作品の冒頭から抱いていたイメージはいい意味で崩される事になった。
 前述の印象を抱いていた私は始まる前から期待で胸を踊らせていた。いざ始まると私の中の影絵の概念と今目の前で繰り広げられている影絵の解釈が一致せず、戸惑いを隠せなかった。確かに影絵ではあるのに今までに観た影絵の作品とは全く別の作品に感じた。しかし作品が進んでいくに連れて、戸惑いは興味へと変化していった。この作品はどんな結末を迎えるのか、作品に一貫性は存在しているのか、登場する人物や人物外のキャラクターに共通点は存在するのか等考えながら鑑賞していた。その結果、作品を通して感じた事は恐怖であった。
 まず台詞が無い事により、何がいまスクリーンで行われているか分からないことが多く、視覚では確実に進行している物事を追っていても脳と心は着いては行かなかった。何とか追いついたとしてもとても不思議な感覚が纏わりついていた。
 何故恐怖を感じたのか私なりに分析してみた。そして結論を導き出す事が出来た。上記と類似するが、スクリーンの中で何が行われているのか、作品の主旨が何なのか、分からないという感情がトリガーとなる恐怖心ではないかと考察した。所謂、怪奇現象に抱く漠然とした恐怖心を抱く心理と、サイコパスに抱く偏見から引き起こされる恐怖心と同等の物ではないかと思う。
 さらに音響による効果により、恐怖心を煽られているのではないかと考えた。作品の進行中にその場で作り出される音響が、録音された音響よりも臨場感が増し、よりリアルに感じられた。音響のリアルさと非現実的なスクリーンに広がる世界が不協和音となって、混ざり合い、奇妙な世界に囚われている事が怖いという感情に繋がるのではないだろうか。
 今回『紫気東来-ビッグ・ナッシング』を観て自身が抱いた感想は作品を通した恐怖であったが影絵という事もあり、この作品の感想は人によって様々な意見を持つのではないだろうか。また2回観た場合の感想や、作品自体について調べてから観た場合の感想の変化についても気になった。抱く感想が七変化するこの作品から無限の可能性を感じた。