『フィガロの結婚』観劇レポート
東京学芸大学3年
大橋雅奈美
 観劇中、こっそり、バレないように、マスクを外す。もちろん、声は出さない。くしゃみもしない。
 帰ってきたような感覚がした。劇場の匂いがする。照明機器が発熱している時の、何かが少し焼けたようなあの独特な匂い。マスク越しではわからなかった匂いだ。そういえば、マスクをせずに外を出歩けた時期なんかもあったっけ、と思えるほどマスクは生活に馴染んでいる。

 私は今、東京の大学に通っている。3年ほど前に宮崎から上京してきた。所属学科ではパフォーマンス全般を学びながら、部活、サークル、自主ゼミで演劇の上演や勉強をしている。
 上京してすぐ、憧れだった劇場のフロント業務に携わり始めた。私の世界は気持ち悪いくらいに演劇一色だった。今年の3月頃から、それが一変した。
 私の生きている世界は180度と言っても差し支えないほどに変わった。大学はオンライン授業になり、部活やサークルはなくなり、演劇に陰りが見え始めた。今まで絶対だと思っていたものがなくなっていく感覚に陥る。

 今では以前に近い形態で上演が行われている。全てが万全、元どおりではないが、この状況が日常として受け入れられつつある。私はまた性懲りもなく演劇を始めている。

 そんな中、東京芸術祭の学生観劇プログラムとしてこの『フィガロの結婚』を観させていただいた。初めて生でオペラを観劇した。
 カチ、カチという庭師が枝を切る音から作品は始まる。枝を切る音が大きくなっていく程、客席は静かになっていく。上演に映るまでのこの空気が、時間が好きだ。
 作品の第一印象として、演劇に近い、と感じた。どんな要素がそう感じさせるのだろうか。私のオペラのイメージとして、オペラ歌手は役者ではなく歌手だ、という認識があった。歌うことがいちばんの役目だと思っている。しかしこの『フィガロ』にはまず台詞がある。オペラ歌手の方々がキョロキョロ動く。日本語で話している。これだけで、かなり演劇ちっくというか、身近なもののように感じられた。表現はきっともっと自由でいいのだと学んだ。私は案外ジャンルに縛られているのかもしれない。

 劇は日本語とイタリア語両方の言語で進行していく。伯爵たちは黒船で来航した外国人として、イタリア語で歌を歌う。一方フィガ郎たちは日本人の設定、日本語で歌う。伯爵たちと歌う場面ではイタリア語だ。日本語、イタリア語、言語の違いを利用して階級の差のようなものをわかりやすく提示する一方、フィガ郎から伯爵への嘘の記号としてイタリア語が機能する場面がある。一瞬で取り繕った嘘だということがわかる、言語の違いを利用した鋭い演出が見えた。
 全体としてモーツァルトの自由で愛らしい、それでいて上品な曲と野田さんのやんちゃな演出がマッチしていた。劇中に登場するいろんな遊びの要素に、作品の面白さが詰まっていたと思う。鋭い仕組み作りの中に、途切れることのない遊びの要素が入っている。

 女性の悲しみ、怒りにフォーカスしていた点も印象に残った。マルチェ里奈の流血シーン、アルマヴィーヴァ伯爵夫人の最後の行動。役者、演出が原作に抗っているように見えた。時代の価値観からして致し方ない部分なのだが、それでも台詞にない部分で彼女たちにフォーカスすることで補おうとしているのかな、と思った。

 大学も一部ではあるが対面活動が再開され、一つ一つ活動が再開できるようになってきた。今現在、私はある演劇作品を製作中だ。この時期に『フィガロの結婚』は大変勉強になった。
 だが演劇は絶対ではない。感染はまた拡大してきているようにも思えるし、今作っている作品もいつ中断してしまうかもわからない。2000年も前から存在している「演劇」の営みに死の概念などないように思えるが、作品の死は存在する。
 しかしいたずらに不安になっていても仕方ないので、私は、マスクをこっそり外した時の、あの劇場の空気を堂々と味わえるようになるまで、営みを粛々と続けるつもりだ。