『真夏の夜の夢』観劇レポート
シェイクスピアの原作では、アテネの森を舞台に貴族たちの恋の物語が展開されるが、野田版では、日本の割烹料理屋「ハナキン」の人々が富士のふもとの「知られざる森」を舞台に設定が書き換えられている。ライサンダーの「ライ」、デミトリアスの「デミ」という名称変更はまだ理解の範疇にあるが、ハーミアから「ときたまご」、ヘレナから「そぼろ」への改名は一見すると脳内に「???」としか浮かばない。しかしこのような人物へのふざけた命名も舞台上では野田ワールドではお馴染みの言葉遊びにおける一つの機能を果しているということが劇の進行とともに分かってくる。この一見浮世離れした設定も同じく言葉遊びを得意としたシェイクスピアの演劇における遊戯性に平仄が合うように思えてしまうから不思議なものだ。これぞ演劇に特有の虚構性が為せる業なのかもしれない。そして何と言っても、かの有名なゲーテの代表作『ファウスト』のキャラクターである悪魔・メフィストフェレスが物語に乱入し、本来であれば重要な役回りのはずである妖精・パックの役目を盗み取ってしまい、原作ではあまり表現されていない嫉妬や憎悪といった負の感情表現にもフォーカスされている点が本作の最大の特徴と言えよう。現実世界、夢の世界、妖精の森の世界、さらに個人の意識内の世界など重層的な枠構造で物語が進行する、一瞬たりとも目が離せない展開の先には、シェイクスピアでの喜劇とは違う形で甘くビターな結末が待っている。
野田秀樹が一目惚れしたというシルヴィウ・プルカレーテについて私は知らなかったのだが、観客にどのように見えるのか考え抜かれた構造的な演出や映像などの技術を効果的に使う術をよく心得ているように感じられた。役者たちも十分にロールを果たせていたように思える。メフィストフェレス役は飄々としたコミカルな風体を呈示しつつ本性であるデモーニッシュな様も併せて表現しなければならない難しい役どころだったと思う。その点に関しては今井明彦の演技には全く不服はないのだが、同じく大スクリーンに顔がドアップで映った鈴木杏を考えると、鈴木杏がメフィストフェレスを演じたらどうなるのだろうかと思った。コミカルな振る舞いが多い前半から、心の闇に迫る後半の流れをみて今井より鈴木のほうが底知れぬ恐ろしさというものを感じられたからだ。
個人的には職人たちが劇の練習をする際に役を決める場面での「演出家って灰皿を投げる役だろ?」というような趣旨の台詞がとても面白かった。客層に依拠したハイコンテクストな笑いのネタだったと思うが、野田の演劇界の大先輩への敬愛(?)を感じられて心が温まった。野田秀樹の演劇界での今後の更なる挑戦にも注目していきたい。