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【開催レポート】『マライの虎』(テアター・エカマトラ/2018)を巡るトーク(ゲスト:テアター・エカマトラ、滝口健氏)
(文:山崎健太 写真:鈴木 渉)
東京芸術祭2023で上演映像が配信されたテアター・エカマトラ『マライの虎』(2018)は、太平洋戦争中の1943年に制作された同タイトルの日本のプロパガンダ映画を原作とする舞台作品。原作映画はイギリス領マラヤで撮影されたものだが、作中のマレー系や中華系の登場人物はそのほぼ全員が日本人によって演じられている。イギリス領マラヤに暮らし理髪店を営んでいた谷豊が、イギリス軍が背後で糸を引く暴動で妹が殺されてしまったことをきっかけにマレー人と盗賊団を結成し、やがてマレー半島の平和のためにイギリス・中国と戦う日本陸軍のスパイとなり活躍する様を描く。テアター・エカマトラによる舞台版は映画版の単なる舞台化ではなく、この映画をどう舞台化するのかという議論の過程も含めて舞台に上げるものだ。マレー系シンガポール人、中国系シンガポール人、そして日本人俳優による混成チームは、ときに映画の一場面を演じながら、映画の舞台化をどうにか成立させようと試行錯誤していく。俳優が自身のものとは異なるアイデンティティを演じ、あるいはその様子を互いに目撃するうちに、それぞれの言語や出自、立場の違いが浮かび上がり——。
芸術祭ではオンラインでの映像配信に加え、作品に対する理解を深め思考を刺激する2回のトークセッションを実施。ここでは10月27日(金)に行なわれたトークセッションの様子を抜粋してお届けする。登壇者は劇作家のアルフィアン・サアット、テアター・エカマトラの前芸術監督で演出家のモハマド・ファレド・ジャイナル、テアター・エカマトラのエグゼクティブ・アーティスティック・ディレクターのシャーザ・イシャック、そして多くの国際共同制作作品に参加経験を持つドラマトゥルク・翻訳者の滝口健。司会は東京芸術祭FTレーベルプログラムディレクターの長島確と河合千佳。トークはクリエーションのプロセスを振り返るとともに国際共同制作の意義にも迫るものとなった。
どのように歴史が記述されていくか
アルフィアン 創作のきっかけは俳優の田中佑弥さんとの偶然の出会いでした。2016年にシンガポール国際演劇フェスティバルで能楽『綾鼓』をもとに日本の演出家中野成樹とシンガポールの演出家チョン・ツェシエンが創作した『DRUMS』という作品が上演されたとき、出演していた田中さんに劇場で会って少し話したんです。そのあと、同じ年に私が書いた『NADIRAH』という作品がフェスティバル/トーキョーに招聘されて東京で再会しました。そのとき「一緒に何かできたらいいね」という話をしていて、そこから作品が育っていったんです。
コンセプトの面から言うと、私は議論を呼ぶようなテーマにこそ惹きつけられます。だから、日本とシンガポールのコラボレーションだったら戦争のことだよなとすぐに考えました。もちろんこれはセンシティブなテーマです。歴史戦もあり、歴史を改竄する人たちがいる。日本の右派は自虐史観という言葉を使っていると聞きますし、中国の習近平は「歴史ニヒリズム」という言葉を使ってます。アメリカでも、奴隷や人種差別を巡る研究などは自国の歴史に対して自信を失わせるという批判があり、教育課程から外すべきだと主張する人たちがいます。そういう様々なことを思い浮かべながらコラボレーションに臨みました。
長島 戦争というテーマから『マライの虎』という日本の映画、あるいはその主人公であるハリマオ=谷豊という人物にはどう行き着いたんでしょうか。ハリマオというのは日本でも、特に若い世代の人たちは全然知らないキャラクター、あるいは歴史上の人物だと思うのですが。
アルフィアン それもリサーチの中での偶然の出会いでした。でも、この映画は調べれば調べるほど面白いものだったんです。たとえば、この映画の中では日本の俳優が肌を褐色に塗ってマレー人の役を演じています。ブラウンフェイスというんですけど、ちょっと植民地主義的な表現ですよね。この映画が戦争だけでなく、それ以前の1930年代という時代を切り取っていて、マラヤとシンガポール、そして日本との間にあった強烈なむすびつきを描いていることも重要です。そして最も重要なのは、主人公の谷豊という人物がある種の神話に属するものになっているということです。彼の人生は現実、映画、TVドラマのそれぞれで違うバージョンがある。神話と歴史の間の見極めも大事ですが、一方で歴史のかなりの部分は神話を作っていくことなんじゃないかという気もしています。
そういうふうに、それぞれの歴史が互いに折り合わず、ずれが生じてしまう大きな理由の一つに言葉の違いもあります。様々な知識が特定の共同体、あるいは特定のアーカイブの中で眠っている。訳されないとアクセスできないわけです。『マライの虎』でも、最後の裁判の場面は日本語の資料に基づいています。これはドラマトゥルクのショーン・チュアが見つけてくれたものですが、英語では全くアクセスできないものでした。
シャーザ 舞台版『マライの虎』にはマレー系、中国系そして日本人の俳優が出演していましたが、それぞれ違うバージョンの歴史を聞かされていると思うんです。歴史というのは、単に事実の記述ではなくて、その解釈です。だから、日本の俳優である田中さんが知っている歴史はもちろん、我々が学校で習ったものとも、親や祖父母から聞いたこととも全然違う。だからこそ、それを聞くことで我々がどこから来たのかということを改めて確認することができました。
アルフィアン 私は歴史に惹きつけられますが、歴史劇や時代劇がやりたいわけじゃない。歴史がいかに記述されていくのかということに興味があり、私たちがどうやってそれに対して挑戦状を突きつけられるのかということを考えたかったんです。だから、俳優たちとそれぞれに意見や考えていることを出し合い、異なった見方を知り、それにまた反応していくことでこの作品は作られていったんです。
一つの声から複数の声へ
ファレド リサーチの一環で、日本軍による華僑大虐殺が行なわれた場所も訪れました。トラウマの残っている場所です。田中さんが占領時代のことを知るいい機会になるのではないかと思ってのことだったんですが、途中でこれは田中さんにとってはちょっと暴力的だったかもしれないと思いあたったんです。
国際共同制作では、参加者はそれぞれ違う国の違う文化を背負って参加します。そうすると、往々にしてその国の代表としての立場を背負わされることにもなる。でも、たとえば田中さんは日本人として『マライの虎』に参加していますが、日本人であることは彼の属性の一部でしかない。もう一つ、数世代前の人たちがやったことに対して、今を生きる人間がどこまで責任を負うのかという問題もあります。私は田中さん個人に日本人としての責任を突きつけたいわけではありませんでした。
だから、『マライの虎』のような国際共同制作においては、話をすることが重要なのはもちろんですが、それと同じくらい、話をしないことも重要なんだと思うんです。自分が知らなかったことや、知っていることとは違う見方に出会ったときに、沈黙の中で、それぞれがその事実に自分なりに折り合いをつけられるような場を用意すること。そういう余裕を与えることが大事だということにもこの共同制作を通じて気づきました。
滝口 私はシンガポール国立大学の日本研究学科というところで教えていたんですが、そうすると学生から、日本の占領期についての見解を問われることがある。それに対して答えるための自分の言葉を持っていることは大事です。でも一方で、国際共同制作に参加するときに、何で突然、自分の国を代表しなきゃいけないんだろうということも考えます。国民国家単位で自分たちの文化を考えるという習慣は未だにそれほど強いんだろうかと思ったりもする。だからこそ、『マライの虎』における演じるという行為やコラボレーションのプロセスの中で、言葉や自分の属性を脱ぎ捨てるような部分が存在しているのはとても大事なのではないかと思います。
アルフィアン 『マライの虎』ではときにお互いの役割を逆転させるということもしています。自分ではない誰かになりきるのが演じるという行為だとして、自分の敵になりきれるのか。これはこの作品の中でとても重要な問いです。それをやってみることで何かがわかるかもしれない。そこにある可能性こそがこの作品の取っ掛かりだったと思います。
また別の視点ということで言うと、時間的な隔たりの問題もあります。私たちは過去の出来事を現在の視点から判断し、道義的に糾弾する。しかしそれは生き延びるのに必死だった時代においてなされたことであるということも考える必要があります。シンガポールの歴史について、たとえば戦時中の出来事について何らかの判断を下そうとするとき、あまりに単純化が過ぎるのではないかと思うことがあります。
滝口 私はシンガポールとマレーシアにいる間、日本の占領期を扱った作品にずっと関わってきました。そうするうちに気づいたのは、この非常にセンシティブな問題についてのナラティブというのは、議論以前の段階で感情的にそれを拒否されてしまう可能性が極めて高いということでした。それで、どうしたらまず受け取ってもらえるナラティブを作れるんだろうかということが、ドラマトゥルクとしての私の非常に大きなテーマになってきました。
重要なのは複数の声が聞こえるということです。一つの声しか聞こえない状況が作られてしまうと、それは受け入れられない可能性が高くなってしまう。『マライの虎』はもともとプロパガンダ映画で、それは一つの強力な声を作る装置であるということを意味しています。舞台版の『マライの虎』は、単一の声を聞かせるプロパガンダ映画をもとに、複数の声を聞くようなクリエーションを通して、複数の声を聞く場として作品を作り上げたことが何より素晴らしい達成だと思います。
何とどう向き合うのか/何をどう表象するのか
シャーザ 複数の声という点で言うと、もちろんシンガポール国内でのインターカルチュラリティの問題もあります。シンガポールでは様々な文化の間で色々なことを切り分けないといけないし、行き来しないといけない。でも、お互いの文化のことはよくわかっていなかったりするんです。シンガポールには人種間の融和(racial harmony)という言葉があります。みんな違ってみんないい、みたいな感じの言葉ですね。でもそれは上っ面だけの話で、深い意味で異なった文化について理解しようとしているわけではありません。寛容(tolerance)という言葉も使われますが、これもお互いを我慢する、許すという意味での寛容です。理解するのではなく、ともかくいてもいいよねという意味での寛容さ。多文化主義というのは、お互いにばつの悪くなるような対話をしないための言い訳です。居心地悪いのは避けようねという感じでやってきたわけです。
アルフィアン 実はこの話には日本の占領時代も関係しています。占領時代というのは人種間の緊張が相当に高まっていった時期でした。日本軍が中華系とマレー系とで扱いを変えていたからです。日本軍への協力者の問題もあります。そういうことの結果として、人種意識が強まっていった。それが現在のシンガポールのアイデンティティのあり方にも影響を与えている。アイデンティティというのは一つの要素に基づいているわけではなく、自分を取り巻く状況や他者との関係によって変わっていくものだということですね。
長島 お話を聞いていて、どの役であれそれを演じることに必ずリスクがかかっているということを感じました。たとえば田中さんが日本人の役を演じることは当たり前と言えば当たり前のことです。でも、この作品で日本人を演じることで、日本人というものを背負わなければならなくなる。日本人が日本人を演じるということが、ここでは過去を引き受けることとつながらざるを得ない、遊びでは済まないアクションなんだということを改めて感じました。それは他の俳優の皆さんも同じで、そこで誠実にリスクを引き受ける姿勢が印象に残りました。映画『マライの虎』は著作権が切れているので、ウェブ上で無料で見ることができます。舞台版と合わせて是非ご覧ください。
『マライの虎』(テアター・エカマトラ/2018)を巡るトーク
日程:10月21日(土)、10月27日(金)
会場:東京芸術劇場 シンフォニースペース
料金:無料(要予約)
トークゲスト:
[10月21日]
貴志俊彦(京都大学 東南アジア地域研究研究所教授)
[10月27日]
アルフィアン・サアット(劇作家)
モハマド・ファレド・ジャイナル(演出家)
シャーザ・イシャック(クリエイティブプロデューサー)
滝口健(ドラマトゥルク、翻訳者)
司会:
長島 確(東京芸術祭 FTレーベルプログラムディレクター)
河合千佳(東京芸術祭 FTレーベルプログラムディレクター)
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