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【開催レポート】『マライの虎』(テアター・エカマトラ/2018)を巡るトーク(ゲスト:貴志俊彦氏)
(文:山崎健太 写真:鈴木 渉)
東京芸術祭2023で上演映像が配信されたテアター・エカマトラ『マライの虎』(2018)は、太平洋戦争中の1943年に制作された同タイトルの日本のプロパガンダ映画を原作とする舞台作品。原作映画はイギリス領マラヤで撮影されたものだが、作中のマレー系や中華系の登場人物はそのほぼ全員が日本人によって演じられている。イギリス領マラヤに暮らし理髪店を営んでいた谷豊が、イギリス軍が背後で糸を引く暴動で妹が殺されてしまったことをきっかけにマレー人と盗賊団を結成し、やがてマレー半島の平和のためにイギリス・中国と戦う日本陸軍のスパイとなり活躍する様を描く。テアター・エカマトラによる舞台版は映画版の単なる舞台化ではなく、この映画をどう舞台化するのかという議論の過程も含めて舞台に上げるものだ。マレー系シンガポール人、中国系シンガポール人、そして日本人俳優による混成チームは、ときに映画の一場面を演じながら、映画の舞台化をどうにか成立させようと試行錯誤していく。俳優が自身のものとは異なるアイデンティティを演じ、あるいはその様子を互いに目撃するうちに、それぞれの言語や出自、立場の違いが浮かび上がり——。
芸術祭ではオンラインでの映像配信に加え、作品に対する理解を深め思考を刺激する2回のトークセッションを実施。ここでは京都大学東南アジア地域研究所教授の貴志俊彦を招いて10月21日(土)に行なわれたトークの内容を抜粋してお届けする。キーワードは「断層と重層」。映画『マライの虎』撮影当時の状況、そして現在のシンガポールが置かれている状況を知ることでこの作品の背景に迫りたい。
映画『マライの虎』を巡る断層
貴志 戦後、この『マライの虎』という映画はほとんど封印されて忘れ去られていました。米軍が接収したためです。占領期にアメリカは、軍国主義を思い起こすような日本の映画を接収しました。それが返却されるのが1960年代半ば。そうして日本に返された一連のフィルムを接収映画といい、その一つが『マライの虎』でした。それまでこの映画は日本国内では見るチャンスがなかったわけです。
そんな『マライの虎』ですが、東宝の「日本映画傑作全集」の一巻として、2001年にVHSで発売されてから広く知られるようになります。2011年には少し違うバージョンですがDVDにもなっています。そうしてDVDにならなかったらおそらくシンガポールで舞台版が創作されることもなかった。映画というメディアがどのように作られ、普及していくかということも大変重要だということです。
日本ではマライの虎と呼ばれた谷豊を主人公とした『怪傑ハリマオ』というドラマが日本テレビ系で放送されて大ヒットもしています。当時の子供たちはハリマオを真似て頭にターバンを巻いて自転車で走りながら歌を歌ったりしていました。しかしこのドラマの放映は60年4月から。同じ谷豊を主人公にはしていますが、ドラマの原作は映画『マライの虎』ではないんですね。ドラマの原作は56年から日本経済新聞に連載されていた山田克郎作、石ノ森章太郎挿絵の児童向けの冒険小説です。それが大ヒットしたことを受けてドラマが制作されることになったわけです。
ですから、『マライの虎』と『怪傑ハリマオ』は実は全く関係のない別々のものなんです。さらに付け加えておくと、シンガポールがマレーシアから独立したのは1965年なので、『怪傑ハリマオ』が日本の子供たちに大ヒットしていたときには、シンガポールという国はありませんでした。
『マライの虎』はシンガポール陥落の直後、1942年の6月頃から43年の2月頃にかけて、大日本映画製作株式会社、いわゆる大映が撮影した戦意高揚映画です。撮影した時期というのはすごく大事な情報で、映画というのは作品だけを見るのではなく、どういうコンテクストでこういう作品が作られていったのかということもきちんと理解しておく必要がある。
43年2月というのはガダルカナル島が陥落した頃です。太平洋戦争が大きな節目を迎えた時期ですね。一方、日本軍がシンガポールを占領していたのは42年の2月から45年の9月までのおよそ3年半。この42年の2月から3月には日本軍による華人大虐殺事件が起きています。シンガポールには今もそれを記憶するものとしてシンガポール華僑虐殺記念館というものもあります。数字は諸説ありますが、5000人6000人と多くの人が亡くなった華人大虐殺のあとに『マライの虎』という映画は撮影されました。しかし映画にはそれに言及する部分はない。映画では主人公・谷豊の妹・静子が華人に殺され、谷はその復讐に向かうわけですが、華人から日本人への報復があっても当然の状況だったわけです。人の命を人数で比べることはできませんが、華人が静子を殺したということだけを取り上げて華人を非難する前に、こういう背景があったということは覚えておいてください。
谷豊という人物の重層性
映画の主人公のモデルとなった谷豊は実際にはどのような人物だったのでしょうか。谷は2歳のときにマレーシアのタイとの国境付近に移住しました。小さいときからほとんどずっとマレーシアに住んでいたので、実は日本語はほとんどできない。映画の中では非常に拙い日本語を使っています。舞台版では流暢な日本語をしゃべっていましたが、そこは映画の方が現実に忠実です。
彼はイスラム教徒に改宗していますし、マレー人と結婚もしている。日本語はほとんど話せないし、文化的にも日本と接触が薄い。一方でマレー人とは密な関係を築いていました。間違いなく彼は、マレー人とはマレー語で喋っていたはずなんです。映画もドラマも谷が日本側に立つ物語になっていますが、実はメンタリティから考えれば彼は日系マレー人でした。32歳と非常に若くして亡くなっていますが、これも映画のようにイギリス連邦軍に撃たれたわけではなく、マラリアで亡くなっています。これも映画と現実の違いですね。
マライ? マレー? マラヤ?
ところで、映画のタイトルになっている「マライ」とは一体どこを指しているのでしょうか。「マレー」や「マラヤ」という言葉もありますが、これらはどう違うのでしょうか。この地域には現在、シンガポール、マレーシア、ブルネイの3つの国があります。ところが、この地域が歴史的に一つに統合されたときが2回だけあります。最初が日本軍政下の42年12月。このときの閣議で「英領マラヤ」から「マライ」に改称するということが決定されます。このことを知っておくと『マライの虎』というタイトルが意味しているところが、少なくとも日本占領期に近い時期の話だろうということがわかるわけです。次にこの地域が統合されたのがマレーシアがイギリス連邦から独立した63年。その後、65年にシンガポールが、84年にブルネイが独立して現在の状態になりました。
民族の重層性:マイノリティとしてのマレー系
シンガポールは華人やマレー系、インド系など、多くの民族からなる多民族国家であることはよく知られています。ではシンガポール人とは何でしょうか。実はこのアイデンティティの問題こそ、この国がずっと悩み続けてきた問題でもあります。
ちなみに、シンガポールという国名は、サンスクリット語でライオンを意味する「シンハ」と街を意味する「プーラ」を組み合わせた言葉です。東南アジアにライオンは棲息していませんが、ライオンは国の象徴になっていて国旗にも描かれています。一方、向かい合って描かれている虎はマレーシアの象徴です。シンガポールという国はマレーシア抜きには存在しません。
現在のシンガポールの人口は約400万人、東京都の人口の半分弱ぐらいになると思います。そのうち華人は約300万人、マレー系は約55万人です。注意しなければならないのは、華人と中国人とではアイデンティティのあり方が全く違うということです。東南アジアの華人は在地化してからとても長い時間が経っています。だから、同じチャイニーズということでも今の中国大陸の中国人とは区別して考える必要があります。
マレー半島におけるマレー系と華人との関係は実に微妙です。シンガポールが独立する前年64年にはマレー系と華人との大規模な民族衝突が起こっていますし、シンガポール独立後の69年にも5.13事件という大規模な衝突が発生しました。対立の背景には両者の経済格差があります。それで、マレーシア政府は71年からブミプトラ政策というマレー人優遇政策をはじめ、これは今でも続いています。
これを受けて多くの華人がマレーシアからシンガポールに移ったわけですが、実は華人だけでなくマレー系の人たちのなかにもシンガポールに移住する人がたくさんいます。1人当たりのGDPを比較するとシンガポールはマレーシアの6倍。シンガポールの方が圧倒的に豊かだしチャンスもあるわけです。
シンガポールに移ったマレー系の人たちはマイノリティであるがゆえに、マジョリティにはない結束の強さがあります。テアター・エカマトラはシンガポールではマイノリティであるマレー系シンガポール人の劇団ですが、そういう劇団を作るということ、しかも華人とも仲良くしながら活動していくということには、マイノリティとしての立場や、もしかしたらある種の政治的判断も反映されていると思います。
現在のシンガポールを巡る断層と重層
現在のシンガポールは大きな変化の中にあります。建国の父と呼ばれ30年ほど首相を務めたリー・クアン・ユーは、多民族主義国家であるシンガポールを一つの国としてまとめていくために、権威主義、エリート主義、功利主義、そして徹底して現実主義的な政策を推進し、後継者もその方針を引き継いできました。ところが、建国から50年ほどが経ち、グローバリズムの進展などの世界の変化を受け、2011年以降のシンガポールは統治モデルの劇的な修正に着手します。22年4月にはこれまでシンガポールを統治してきたリー家が権限から離れ、ローレンス・ウォンという華人が首相になることが内定しました。現在のシンガポールは国民に配慮した、特にマイノリティにも目を配るような社会福祉や公共補償を打ち出してきています。
これは多民族国家としてのあり方にも変化が起きてきているということです。これまでは民族間の関係はコミュニティ同士で勝手にやりなさいという感じだった。それが今、多民族国家ということは引き続き標榜し多様性は尊重しつつ、複数の民族がどのように重なって、一つのシンガポールという国を作り上げていくのかということが改めて問題になっている。
エカマトラという言葉はサンスクリット語由来で、「エカ」は1、「マトラ」は次元(※)、簡単に言えば「1次元」という意味になります。この名前にはこの劇団が何を目指しているのかが示されている。舞台版の『マライの虎』はそういう変化の中にある現在のシンガポールで作られ、一つにはそのような文脈において大変高い評価を受けたのだと言うことができるのではないでしょうか。
- 10月27日(金)のトークでテアター・エカマトラのエグゼクティブ・アーティスティック・ディレクターのシャーザ・イシャックはエカマトラを「1つのビジョン、あるいは1つの方向one vision or one direction」と表現していた。
トークの最後のパートでは、毎日新聞社が所蔵する毎日戦中写真のフォトストックを用いて当時の現地の様子が紹介され、その背景の解説が行なわれた。毎日戦中写真は2023年10月時点では一般には未公開だが、戦後80年の公開を目指し、毎日新聞社、東京大学大学院渡邉英徳研究室、京都大学東南アジア地域研究研究所の三者により研究が進められているのだという。今回はその研究の成果の一部を特別に公開したかたちだ。マレー・シンガポールに関するものだけでネガ2097枚、紙焼きを合わせると2500枚を超える写真が残されているという。なかには当時、公開を許可されなかった「不許可写真」や公開の際に修正を加えるよう赤字でメモが書き込まれている写真もある。貴志は「当時のスクープ写真はあくまでも当時の軍の意向に沿う写真。陸軍省の検閲だけじゃなくて社内検閲も含めてそれを通ったものだけが新聞に載る。大半は載らない。彼らが公開を許可しなかったものの中に本当の歴史的事実を描いてる写真があるはず。当時は出てこなかったものも、今の時代だからこそ公開していきたい」と語っていた。
『マライの虎』(テアター・エカマトラ/2018)を巡るトーク
日程:10月21日(土)、10月27日(金)
会場:東京芸術劇場 シンフォニースペース
料金:無料(要予約)
トークゲスト:
[10月21日]
貴志俊彦(京都大学 東南アジア地域研究研究所教授)
[10月27日]
アルフィアン・サアット(劇作家)
モハマド・ファレド・ジャイナル(演出家)
シャーザ・イシャック(クリエイティブプロデューサー)
滝口健(ドラマトゥルク、翻訳者)
司会:
長島 確(東京芸術祭 FTレーベルプログラムディレクター)
河合千佳(東京芸術祭 FTレーベルプログラムディレクター)
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