デジタル時代の舞台芸術とは? VR再演に見る、未来との折り合いのつけ方

F/T20『Rendez-Vous Otsuka South & North』 Photo: 宮澤響(Alloposidae LLC)

2020年9月30日から61日間にわたって開催された「東京芸術祭2020」。新型コロナウイルスの流行により、劇場に観客を集めての公演が制限される中、アーティスト、プランニングチーム、スタッフらが知恵を絞り合い、11月29日の閉幕まで走り抜けた。

観客とパフォーマー、そして劇場——いわゆる「現場」を前提とするパフォーミング・アーツの根幹を問われながらでの開催となった東京芸術祭2020では、そのイレギュラーな状況を乗り越えるべく、さまざまな試みが行われた。オンライン・ベース でのクリエイションや公演については本コラムページでもすでにいくつか紹介しているが、本稿では「テクノロジー」という観点からもう1つ、VRを用いた作品に言及したい。

「ダークマスター」が内包するVR的視点

撮影:前田圭蔵/東京芸術劇場

VRとは「Virtual Reality」の略で、「仮想現実」を意味する。VRゴーグルと呼ばれる器機を装着し、専用の映像を見ることで、架空の世界を、あたかも目の前の現実のように体験することができる。この技術を用いれば、例えば劇場に足を運ばずとも(あるいは、演者や舞台がリアルに存在しなくとも)、パフォーマンスを“今、目の前で”見ているかのような感覚を得られるわけだ。

東京芸術祭2020では、過去に上演した作品を「VR作品」として大胆に再提示する試みや、街中の空間でVRの活用を模索する動きが見られた。

その挑戦者の1人が、今回初のVR演劇に挑んだ庭劇団ペニノのタニノクロウだ。2003年の初演以降、国内外でたびたび再演されている人気作『ダークマスター』を、VRの使用を前提に台本から練り直し『ダークマスター VR』として上演したのである。撮影を目前に控えたタニノは、「ステージナタリー」のインタビュー記事でVR作品を作るに至った経緯やそのコンセプトを語っている。当初は通常の舞台公演として準備を進めていて、台本もすでに書き終えていたが、コロナの影響を受けて大きく方向転換を迫られることになったという。

しかし一方で、「『ダークマスター』をVRに」というアイデア自体は、いずれやりたいと思っていたことだった」とも語っている。これは、この舞台ないし原作に触れている者には、ある意味納得の発言だと思う。

「映像の視点人物の目で世界を見る」というVRの特性は、すなわち「視点人物=自分」という錯覚を生む。元になった狩撫麻礼と泉晴紀のタッグによるシュールな短編漫画「ダークマスター」の自体が、極端に人間関係を嫌うメシ屋の店主が、ある若者を遠隔操作する形で店を切り盛りしていくうちに徐々に憑依&一体化したような状態になる——という、そもそも非常にVR的な物語なのだ。

僕は初めて読んだときの記憶もあるのかもしれませんが、映画の「マトリックス」と重なる部分があると思っていて。例えば「おいしい」とか「楽しい」って感覚は全部、脳の電気信号によるものです。脳の電気信号って物質の状態なので、じゃあ自分が何でできているか、何に支配されているかというと、物質の状態ということになります。だとすれば、自分が見ている現実も、ゲームの世界も、全部電気信号で、その差は物質の状態の違いくらいなんじゃないかと言える。実際、そういうふうに考えている科学者もけっこういて、自分が今生きている、臨場感を感じている現実も、実は仮想現実だ……と考えなければ説明がつかないこともたくさんあるんです。そういう目線で改めて「ダークマスター」を見てみると、ダークマスターって結局、実態がない支配者を総称してるんじゃないかと思ったんですね。しかもその支配者に“自分”はリモートで動かされている。その状況は、今にすごくフィットするんじゃないかと。実際、飲食店も苦しい状況ですしね。

「時代を映す鏡になる」という演劇の特性が、VRという手法をとることで、より先鋭化・深化した格好だ。他にも、観客が視点人物になることから生まれる性差の問題や、ゲームにおけるソニーと任天堂のスタンスの違いに見る「映像の解像度」への意識など、興味深い話題が尽きない。

舞台は「折り合いをつける」芸術?

左:F/T20『Rendez-Vous Otsuka South & North』 Photo: 阿部章仁
右:F/T20『Rendez-Vous Otsuka South & North』 Photo: 宮澤響(Alloposidae LLC)

ダンスの分野でVRに挑戦しているのが、ファビアン・プリオヴィルの『RENDEZ-VOUS』だ。今回の東京公演で11回目の上演となる本作は、公園やカフェなど公共の場での上演を前提にしたVRプロジェクトで、彼にとって「レパートリー」と言ってもいい存在である。そんな勝手知ったる演目の東京版『Rendez-Vous Otsuka South & North』を、彼はどのような考えに基づき作り上げていったのか。インタビュー記事「リアリティとの戯れ――ファビアン・プリオヴィルの世界」を読むと、彼のテクノロジーへの深い洞察が言葉の端々から感じられ、大変刺激的だ。

「テクノロジーは良いとか、悪いとか、そういうコメントがしたいわけじゃない。単純に、テクノロジーがぼくたちの日常に深く入り込んでいるから、そういうツールを使った創作をいつも探している」

己の肉体を見つめ、駆使する表現であるダンスは、なんとなく仮想現実やテクノロジーといった「非肉体」的なものには積極的ではないように思いがちだが、プリオヴィルの「テクノロジーは、すでにそこにある」という認識からすれば、そんな先入観はとんだお門違いと言ったところだろう。

「今回のコロナ禍で、アーティストたちは生き延びるためにデジタル技術と向き合わざるを得なくなっている。自分は前からスカイプを使った作品なども作ってきたから、こういう変化もわりと楽しめているけど……。確かに従来の舞台芸術の世界は閉鎖されている。でもVRのようなテクノロジーを使えば建築物としての劇場を離れ、舞台も照明も小道具も関係ないところへ自分のダンスを連れ出せるだろう。テクノロジーは新しい空間を探究させてくれる。いわゆるデジタル空間だけじゃなく、物理空間も含めてね。テクノロジー自体が、新しい舞台表現、劇場、言語になりつつあると思う。今は何もかもZOOMを使って進めなくちゃならないし、動画配信も当たり前になったけど、でも振付家はもっと深いレベルで、つまり単なるプラットフォームの問題ではなく、コンセプトの問題、あるいは感覚や論理の問題として、ダンスと新メディアの変容を取り込むべきだと思っている」

この発言からは、「生き延びるためのデジタル技術」の“その先”、いわば「新たな表現手段としてのデジタル技術」すら越えて、「より自由になるためのデジタル技術」への眼差しが見て取れる。パフォーミング・アーツは、コロナの有無などとは無関係に、すでに新たなフェーズに突入していたのだ。

しかしながら、一時期のAI脅威論じゃないが、とどまることを知らぬ総デジタル化の波に、不安や不満を抱く人もいるかもしれない。当然アナログの良さ、というのは確実にあるし、デジタル化によって失われるものなど皆無——なんて断言することも難しい。トレードオフの法則から自由になるのは簡単ではない。そして、そうした議論は、これまで何十年も繰り返されてきた。アナログとデジタル、旧来的な価値と新たなる価値の狭間で、私たちはどんな落とし所を見つければいいのだろうか。

東京芸術祭総合ディレクターの宮城聰は、東京芸術祭2020閉幕におけるテキスト「『どうやって出会う』と『DX』」の中で、デジタル化の進んだ結果として現れる、「全体」に合体することのできない人間を排除するようなディストピアSF的世界をイメージさせた上で、「ここで舞台芸術の出番だ」と宣言する。

舞台芸術は「たったひとりでは形にできない」という特徴を持っています。複数の人間が(ほぼ)同じゴールを目指して協働し、みんなで一緒に初日を迎えます。仲間と「合体」して、びっくりするほどのパワーが発揮されます。(中略)この作業は、本来、デジタルとは極めて相性がいいはずですよね。生身の人間がやっていた仕事をひとつひとつ検証してゆけば、ここもデジタル化できるぞ、こっちもだ、と、かなりDXを進められるのではないかと思います。

しかしどれだけデジタル化を進めても、舞台芸術においては、「違和感のある他者を排除しよう」という考えは出てきません。

なぜなら、舞台芸術家は、「自分という他者」への違和感、を創造の源泉としているからです。

社会の中で、容易に折り合いがつかない領域でこそ力を発揮するのが「舞台芸術」なのかもしれない。こうした可能性の追求は、その時々の社会問題を織り込みながら、これからも続いていくに違いない。それはもちろん、来年度以降の東京芸術祭でも同様だろう。

文:辻本力(ライター・編集者)

※引用元:ステージナタリー「ダークマスター VR タニノクロウインタビュー」、
WEBマガジンFT FOCUS「リアリティとの戯れ――ファビアン・プリオヴィルの世界」、
「どうやって出会う」と「DX」 宮城 聰

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