舞台美術家集団「セノ派」によるイベント&パフォーマンス「移動祝祭商店街」は、地域商店街へのリサーチを元に、同地に祝祭空間を作り上げるというもの。今年は新型コロナウイルスの影響を受け、「移動祝祭商店街 まぼろし編」と銘打ち、「集まる」ことが困難になった現在に向き合う、リアルとオンラインを交えた新たなプロジェクトへとシフトチェンジした。
豊島区在住の筆者は、同イベントの開催場所の1つである大塚は「サンモール大塚商店街」へと足を運んだ。そこで7つのチェックポイントを回り、各所に置かれた顔ハメパネルで写真を撮り、QRコードのシールを集めるルポ(リンク:前回のコラム)を書いた。本稿は、その続編である。
多様な人種・言語・宗教が共存する街、大塚
今回セノ派が模索するのは、「“集まらない”祝祭」「仮想的な祝祭空間」といったもののようだ。今私の手元には、台紙に貼られた7つのQRコードがある。これをスマホで読み取り、再生される映像を順に見て行くことで、その正体が見えてくるに違いない。
まずは、「0_この祝祭のみかた」から見てみよう。リンクを開くと、大塚南口の駅前広場「トランパル大塚」で撮影された短い映像が流れる(以降の映像は、すべてQRコードを配布していた場所で撮影されている)。
ここでは、作品の見方が日本語で説明される。そして背景にはもう1人、その言葉を同時通訳する人物が。その言葉は、世界共通言語として人工的に作られたエスペラント語だ。さまざまな人種・言語・宗教が共存する大塚という街の特性が、作品において重要視されていることが伺える。以降、映像はすべて「アテンドする者の声による解説+エスペラント語による通訳+日本語とエスペラント語の字幕」の構成で進行することになる。
次のQRコード「1_いよいよ今日から祝祭のはじまり」では、リアルな祝祭の開催が難しい今、これら7つの映像によって、脳内で祝祭を行えるようナビゲートする旨の説明が。そして、語り手の女性は、サンモール大塚に入ってすぐの五差路に立つ。
ここから、ある道を行けばキリスト教の教会があり、ある道を行けばイスラム教のモスクがあり、さらにすぐ目の前には、この地を鎮護する天祖神社がある。普段何気なく通過している場所が、多様な人々が共存し、交差するポイントとして捉えられていることにハッとさせられる。知識として頭にはあるが、特に意識せずに生きている街の現実が、日常というベールの裏側で生き生きと動き出すように感じられ、新鮮だ。
「2_124000歩とは、〜エルサレムへの道〜」では、「この地球にはあらゆる時代、あらゆる場所に124000人の預言者がくまなく出現している」(大塚在住のハールーンさん談)という話が披露される。預言者とは、イスラム教の唯一神アッラーの使徒であるムハンマドや、キリスト教におけるキリスト、モーゼなどのことだ。
映像は、この「124000」という数字を使って、見る者のスケール感に揺さぶりをかけてくる。「1人=1歩」換算なら、歩けば大塚から神奈川県小田原市まで行けてしまう——といった具合に。「人」を「距離」に置き換えた一種の遊びだが、こうした時空間の伸び縮みを瞬時に見せてしまうのが、ある意味芸術作品の特性でもある。
「3_祝祭の中心になれる」は、五差路から少し先に行ったところにある「MM MART」というハラルフード・マーケットの足元が映し出される。店は2階にあり、全面ガラス張りになっていて、道を向いた側に顔ハメパネルが見える。
ここではピラミッドや富士山など、いわゆる「見上げる」対象こそが、長らく「崇められる」対象だったという歴史的な視点が導入される。つまり、2階にある顔ハメパネルに顔をハメ、それを下から他人に見上げられることで、自身が崇められる対象になる——すなわち「祝祭の中心」になり得るのではないか、という可能性が提示される。つまり、この作品の観客それぞれが、祝祭の主役である、と。
リアルと想像の狭間で
「4_欠席者のための位置を用意しました」では、「バーバーマエ」という、いかにも歴史のありそうな装飾テントを構えた美容院が映し出される。そこでは、この作品に関わるスタッフや、近所の住人らしき人々(あるいは働いている人々か)が記念撮影をしようとワイワイやっている。
「これじゃ全員入らないよ」「もっと寄って寄って」「後ろ、もうちょっとこうやって」「カメラ近すぎない?」
感染予防のために、みんなマスクをしている。昨年とは状況が大きく異なることを、彼らも、それを映像で見る私たちも皆知っている。言ってみれば、かなりシリアスな事態だ。でも、「祝祭」がもたらす高揚感は変わらない。
ここで撮影された記念写真は顔ハメパネルとなり、その右上には穴が穿たれる。そして、そこから時間差で顔を覗かせた私たち観客は、「欠席者」として写真に参加する格好となる。「いないけど、いる」という、まさに仮想的な形で祝祭に参加しているのである。
「5_珍しい! ゴミになれるパネル」では、道端に置かれたいた粗大ゴミ(タンス)型顔ハメパネルが設置される様子が映し出される。QRコードやスタッフがいなければ、普通に不法投棄されたゴミにしか見えなかったかもしれず、現実に置かれたものが実は作品の一部だったという、ちょっと虚実皮膜な面白さがあった。顔ハメの穴を介して、現実とフィクションが繋がっているかのようなイメージが想起させられた。
そして、最後「6_星になれる。」では、スタッフと思しき人たちが、大正時代創業の歴史ある銭湯「大塚記念湯」へと出入りする様子が映される。「お疲れ様〜」といった風情だ。
と共に、これまで通訳を担当してきた男性がフィーチャーされ、エスペラント語でスタッフや関係者の名前を読み上げていく。エンドクレジットみたいなものか。以前の映像までは、アテンドする人間の発言を通訳してきたが、この映像にはそうした存在は不在である。代わりに、日本語の字幕がエスペラント語で淡々と読み上げられていく。
それだけなら普通だったのだが、途中で「?」となる。
字幕と音声(通訳)が一瞬ズレたのちに無音になり、代わりに字幕が一人語り(?)を始めるのである。そこでは、「字幕を作っている誰かが作品をコントロールできてしまう」という、作品の構造上の盲点のようなものが示唆される。この「祝祭」をテーマにした作品は、個人が自由に改変できる——そんな可能性を暗示しているのだろうか? そして最後に、「想像(しました)」という言葉を残して映像は終わる。
「個」と祝祭
どこまでこの作品のことを理解できたのか、正直なところ、まったくもって心許ない。だが、少なくとも、さまざまなことを考え、想像させる余地をそこここに持った作品であったことは間違いない。
例えば、一見あまり関係なさそうな顔ハメパネルにしても、これがあることで会話が生まれ、作品にコミットする接点になっていたことは間違いない。さらに妄想するなら、顔ハメパネルといえば観光地である。観光は非日常、ハレの行いである。その点では、祝祭と同列に扱うこともできなくはない。
また面白かったのが、「移動祝祭商店街 まぼろし編」のHPに貼られた「2020.11.15 むすびに」というQRコードだ。これを読み込むと、映像ではなくテキストが現れる。そこには、こんなことが書かれていた。
今日は11月5日。公開開始3日目。人は道端で動画を見ないということがわかった。
いまだにアテンドや鑑賞方法の作戦を試行錯誤している。
私も、「脳内祝祭」だし、動画は家に帰ってから見ればいいと思ってしまったクチだ。そこでつい考えてしまう。じゃあ他に、どんな見せ方の可能性があったのだろうか。QRコードを用いず、各スポットにモニターを置いて普通に動画を見せてしまえば良かったのか? あるいは、その場でQRコードを読み取るよう促す見せ方を考えるべきだったのか? あるいは……
こんなふうに、自分なりの「移動祝祭商店街」のカタチを考えさせられてしまうのも、作品の持つ力なのかもしれない。こうして個々の脳内に生まれた祝祭は、さまざまなベクトルの想像力を喚起しながら、さらに大きな“あったかもしれない”祝祭を幻視させる。そもそも集団による祝祭も、分解していけば、個の祝祭と言えなくもない。それを可視化してみせた、なんてことも言えるかもしれない。そうしたさまざまな個(性)を扱う作品に、この大塚という街は似つかわしい。
文:辻本力(ライター・編集者)
※引用元:F/T20「移動祝祭商店街 まぼろし編」、「みんなの総意としての祝祭とは」佐々木 文美