「暴力の歴史」presents 暴力を考えるノート 共同体と暴力 松井 周

「暴力の歴史」presents 暴力を考えるノートより、その内容を一部このコラムにて公開します。小冊子は東京芸術劇場とあうるすぽっとにて配布しています。ぜひお手にとってご覧ください。

共同体と暴力 松井 周

ニュースで幼児虐待死の事件をやっていると、身体が震えることがある。ピリッと身体の中を電気が走る。きっと殺意だと思う。もし目の前に容疑者がいたら、なんらかの暴力をふるってしまいそうな感覚だ。容疑者を思いっきり殴りつける空想はまったく後ろめたくない。僕はまるでハリウッド映画のヒーローのようにやってのけるだろう。まだ犯人と決まったわけでもないのに。
とはいえ、まだこれは暴力的な衝動だ。行動ではない。被害はない。暴力とは行動だ。いわゆる暴力と呼ばれるものは「暴力的な行動」を意味し、被害者が出る。
行動としての暴力は見つけにくい。どちらかと言うと、善意や正義の大義名分をまとって現れるからだ。
学級会や反省会を思い出してほしい。なにか校則違反をした生徒がいて、それを責めるその他大勢がいる。目的は再発防止のはずなのに、実は校則違反の生徒がいかに反省しているかを、態度や反省の度合いや日頃の行いや心構えから徹底して精査する。「背筋を伸ばしたほうがいいよ」「相手の目を見て話そうよ」「声が小さいと思う」などの具体的な指示の裏には「それで反省できていると思っているの?」というメタメッセージが貼りついている。
ここにはもはや再発防止なんて目的はない。ターゲットを徹底的にいたぶるための言動だ。つまり暴力だ。けれど表向きは注意であり、助言であり、指導だ。集団のつくりだした大義名分に基づいて暴力が行使される。
しかも厄介なのは、暴力を行使する側にとっては、これらを暴力だとは決して思っていないところだ。しびれるような快楽は感じているにもかかわらず。

いつの時代でもそれが許される環境なら人は半分無意識で暴力を行使する。
SNSの台頭が人々の罵声に満ちた言動を引き出したのだって、暴力が許される環境が用意されたからにすぎない。つまり、このように暴力的な行動は誰にでも起きるだろう。大義名分をもとにした環境が、暴力の行使を許可するのだ。
大義名分なんて捨てちまえ! という対処法を実現できるなら、暴力はなくなるかもしれない。けれど、そんなことできるのか? という疑問もわく。
共同体は大義名分を共有し、その名のもとに行使される暴力によってその境界線をつくってきたのだとも思うから。

演劇をつくるとき、私たちは俳優やスタッフと一緒になってチームをつくる。これは小さな共同体と言ってもいいかもしれない。そんな共同体において演劇作品をつくっていて、暴力的だなと思う行為はふたつある。

まずは俳優に対するオーダーだ。演出家という役割上、俳優に様々なオーダーを出すのは当然ではあるけれど、身体的な負荷をかけることで俳優の素の部分を引き出そうとしたのは、意図的な暴力であったと思っている。
例えば、四つん這いで馬車になって人を運んでもらったり、スロープを転げ落ちてもらったり、目が見えないまま平均台を渡ってもらったり、土に埋もれてもらったりと、俳優にはこちらのその場での思いつきの注文に応えてもらった。
ここでいう暴力は「無茶ぶり」というものに近かったかもしれない。これまでの稽古過程から意図的に脱線し、その場での思いつきの演出をすることで、俳優のポテンシャルを試すようなものだ。そこから作品が別の方向に進んだり、俳優の作品理解が変更されるメリットもある。
もちろん、身体の故障や本人の嫌がることはしないと事前に説明している。演出家に言いにくかったら、制作を通してでもその意見を尊重する。だから、ある演出を否定することも、変更することも可能である。だから、同意のもとに暴力を回避できる。

もう一点が厄介だ。これは「より良い作品をつくるために」という大義名分のもとに行使される暴力だ。
あらゆる演出の指示の裏にはこのような大義名分があり、それを受け取り実行できる者(身を挺して作品に奉仕する者)は、チームのメンバーとして認められるし、実行できない者はチームを追放される。もしかしたら、その延長線上で、実行できる者たちが実行できない者を吊るし上げることもあるかもしれない。いずれにせよ、大義名分による暴力は行使されるのである。これが共同体を維持するための大義名分をもとにした暴力だ。
幸いなことにこのようなことは、いままで起きたことはない。けれど、共同体であるかぎり、その危険はいつでもある。そうやって共同体全体の所属意識は深まり、力を発揮しやすくなるかもしれないが、同時に誰かを壊し、排除するという行程も含まれる。
「共同体の力を上げること、ひいては作品のレベルを上げること」よりも、「個人を壊さないこと」を優先する。結論としては、このようなことを言うことになる。

個人が壊れることなく、共同体を維持できるし、作品のレベルも上げられるよと言う方もいるかも知れない。でもいまのところ、その方法ですべてがうまくいくのかどうか、僕にはわからない。
ひとつあるとしたら、共同体のカタチを変えることだ。
バラバラでお互いに無関心な個人が、ある条件が揃うと連携し、力を発揮するような共同体。週末にキャンプに行くような感じだろうか? そんなの共同体ではないとも思う半面、演劇は時代の鏡と言うならば、やはりこれまでの求心的な共同体が解体されることになんの疑問もない。
これまでの暴力から解放されることは喜びだ。もちろん、隠れて侵入してくる新しい暴力にも直面することにはなるだろうが。

松井 周[まつい・しゅう] 
1972年生まれ。東京都出身。2007年に劇団サンプルを結成。作家・演出家としての活動を本格化させる。2011年『自慢の息子』で第55回岸田國士戯曲賞を受賞。小説家としても活動している。

写真: Arno Declair

暴力の歴史

“暴力”のかたち
社会に黙認された暴力の形を、あなたはどう受けとめる?

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現代社会で再生産され続ける“暴力”の形を抉り出す。

原作:エドゥアール・ルイ
演出:トーマス・オスターマイアー

2019/10/24(木)〜10/26(土)
東京芸術劇場 プレイハウス

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