『暴力の歴史』プレレクチャー レポート

『暴力の歴史』プレレクチャー レポート

10月22日、『暴力の歴史』(原作:エドゥアール・ルイ、演出:トーマス・オスターマイアー)の初日を2日後に控えた東京芸術劇場プレイハウスのロビーで、ドイツ演劇研究者の新野守広さんによる学生向けのプレレクチャーが開催されました。

この作品が主題とするのは、「現代の暴力」とその複雑さです。レクチャーでは、原作者エドゥアール・ルイと演出のトーマス・オスターマイアーの歩みをそれぞれ紹介。彼ら自身のバックグラウンド、その背景にあるフランスやドイツの社会状況を紐解き、今、なぜこの作品が生み出され、支持されるのかが掘り下げられました。

エドゥアール・ルイの多層性

原作者のエドゥアール・ルイは、1992年、北フランスのピカルディーで生まれました。人口のほとんどを白人の肉体労働者が占め、移民や性的少数者への偏見がはびこるこの町は、同性愛者のルイにとってはあまりにも厳しい環境でした。2014年に発表された自伝的小説『エディに別れを告げて』には、彼が想像を絶する貧困やいじめに遭いながら高校入学を機に地元から脱出するまでの体験がつづられています。

『暴力の歴史』は、彼にとって2作目の小説で、自身が経験したレイプ事件を題材にしたものです。高校を卒業したルイはパリの高等師範学校で社会学を学び、論集や小説も出版しています。あるクリスマス・イブの夜、彼はアルジェリア系の青年と知り合い、愛を交わします。が、その直後、自分のスマートフォンがなくなっていることに気づき、青年を問い詰めると、彼は出自に対する侮蔑だと憤り、ルイを陵辱します。小説はその1年後、この事件を振り返る形で描かれます。告発をためらうルイ、移民への差別を隠さない警察官、ルイを「パリジャン」と嘲る姉……。事件をきっかけに、さまざまな形での差別、偏見、暴力の実態が浮かび上がってきます。

今回のレクチャーでは、舞台映像の一部も観ることができました。直接話法と間接話法を巧みに使い分け、さまざまな人々がさまざまな視点、思考で事件にコメントを加える小説の技法に呼応するように、舞台では過去の出来事の再現と現在の日々との言動が併行して展開していきます。重なる過去と現在が、一つの場面をより多層的で複雑なものに見せていることが、短い映像からもよく伝わってきました。

トーマス・オスターマイアーの問題提起するリアリズム

レクチャーの後半は、トーマス・オスターマイアーと彼が芸術監督をつとめるシャウビューネの紹介に割かれました。オスターマイアーは、西ドイツのハンブルク郊外の生まれの演出家で、ルイより20歳以上年上ですが、やはり労働者階級の出身であることを公言しています。1996年にドイツ座に併設された小スペース「バラック」の運営を任されたことから頭角を現し、1999年にドイツ現代演劇を牽引する劇場、シャウビューネの演劇部門芸術監督に就任しました。

オスターマイアーが手がけるのは、戯曲を丁寧に読み解くリアリズム演劇です。レクチャーの中では、イプセンの『人形の家』、『民衆の敵』を上演した際の映像が紹介されましたが、どちらも戯曲に寄り添いつつも、時代を現代に移し、さらに(討論を仕掛けるなど)劇中で浮かび上がる問題を積極的に観客と共有しようとするものでした。この日配布された資料には、オスターマイアーがシャウビューネの芸術監督に就任した際のマニフェストも含まれていましたが、そこには次のような文言がありました。「演劇は意識化をおこなうと同時に、再政治化をおこなう場所になることが出来る。そのためには、この世界に生きる人間ひとりひとりの生存と、ひとりひとりの社会的経済的な戦いを物語る同時代劇場が必要である」

「語る力」を持つものは誰か

エドゥアール・ルイとトーマス・オスターマイアー。彼らは共に労働者階級の出身で、経済的文化的な貧困を体験していますが、そのことだけが彼らの創作活動に影響を与えているのではありません。レクチャーを通して浮かび上がってきたのは、むしろ、そうした出自を持ちながらも、都市部で文化的な活動に従事しているという引き裂かれたアイデンティティが可能にする複層的な現実の捉え方でした。

「私の父のような労働者は代理表象の世界(政治、経済、文学、文化)に自分たちがいないことを不公平と感じている。たしかに多くの文学や映画は労働者を描いてきたが、それらは労働者階級の現実を通り過ぎるだけだった」とオスターマイアーとの対談でルイは語っています。新野さんは、2018年に起こった黄色いベスト運動の概要や『暴力の歴史』の舞台でもあるパリなどの大都市の郊外に広がる貧困地域の状況を引きつつ、ルイが取り上げるのは、都市やそこで生まれる文化から疎外されている人々の姿であることを指摘します。ルイは彼らの貧しさや無知を容赦なく描き出すことで、そうした人々の現実をすくい上げつつ、その背景にある社会や、それを無視し温存してきた知識層にも批判の眼差しを投げかけているのです。

そして、オスターマイアーもまた、労働者階級のリアルと知識層との分断をよく知る演劇人として、2015年の欧州難民危機をきっかけにしたドイツ社会の排外主義、右傾化に対し、どのような応答ができるのかを模索しています。2017年にはルイの師にあたる哲学者ディディエ・エリボンの『ランスへの帰還』を舞台化。これは、やはり労働者階級出身のエリボンが(極右政党の支持者が集まる)故郷ランスについて書いたテキストをベースにしたもので、出演者が実際のランスを取材していく過程も織り込まれた、野心的な舞台であったそうです。今回東京芸術劇場で上演される『暴力の歴史』は、こうした流れの中で企画されました(原作者のルイも上演用にテキストを修正するなど、積極的に創作に参加していたようです)。

ルイやオスターマイアーの作品の背景にある、ヨーロッパの移民・難民と貧困、排外主義といった問題は、決して日本の現在とも無縁ではありません。レクチャーの中盤に流されたインタビューの中で、オスターマイアーは、この物語について「ナラティブをコントロールするのは誰かという闘争の物語。あらゆる分断、排他主義を前に、語る力を得た者が権力を持つ。そこに同時代性と普遍性がある」と語っていました。インターネット、SNSを通じてさまざまな情報が氾濫、錯綜し、あらたな分断を生んでいく状況は、日本でも多くの人が認めるところでしょう。オスターマイアーのこの言葉は、『暴力の歴史』に向き合う際のガイドラインとなるだけでなく、私たちが今そこにある現実を見つめるためのヒントにもなる気がしました。

取材・文=鈴木理映子(編集者・ライター)

©️Nobuhiko Hikiji
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暴力の歴史

“暴力”のかたち
社会に黙認された暴力の形を、あなたはどう受けとめる?

クリスマスイブ、「私」はアルジェリア系の青年と愛を交わす。
しかし、スマートフォンが無くなっていることに気づいた
「私」がそのことをなじると、
青年は出自と両親への侮辱だと激怒し、「私」はレイプされる。告発へのためらい。
故郷の姉は、「私」のパリジャン気取りを嘲笑する。
警察の自宅捜査が始まる—。
教育・収入格差、移民やセクシュアル・マイノリティへの偏見。
私たちは加害者なのか、それとも被害者なのか。
現代社会で再生産され続ける“暴力”の形を抉り出す。

原作:エドゥアール・ルイ
演出:トーマス・オスターマイアー

2019/10/24(木)〜10/26(土)
東京芸術劇場 プレイハウス

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