東京芸術祭 2017

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2018.08.04

【コラムシリーズ:プランニングチームの0場】〔第1回〕「東京」に、つかのま ― フェスティバル/トーキョー 長島確ディレクター

― コラムシリーズ "プランニングチームの0場"

「0場(ぜろば)」とは、舞台の幕が上がる前の時間を表すことばです(舞台芸術では「幕(まく)」や「場(ば)」ということばを使って、場面の区切りを表します)。
さまざまな世界からの視点をお届けした昨年度の"トークシリーズ『0場』"につづき、東京芸術祭2018では、コラムシリーズ"プランニングチームの0場"をお届けします。
宮城総合ディレクター&5つの事業のディレクターによって結成された、東京芸術祭の「プランニングチーム」。
8名のメンバーのコラムから、まだ誰も目にしていない"芸術祭"の奥深さをさがします。

第1回は、フェスティバル/トーキョー 長島確ディレクター。「東京」という大きな都市のお祭りについて、長島ディレクターの小学生時代の出来事を「考えるヒント」にして語ってくださいました。


 

「東京」に、つかのま

東京芸術祭のプランニングチームの長島です。東京芸術祭の一部であるフェスティバル/トーキョー(F/T)のディレクターとして、このチームに参加しています。リレーコラムの第1回目を任されました。東京芸術祭全体のテーマについては、宮城聰総合ディレクターのメッセージがありますし(こちらこちら)、今年10年目を迎えるF/TのことはF/Tのサイト(こちら)を見ていただくとして、ここではもう少し広く漠然と、「東京」と「芸術祭」について、個人的に考えていることを書きたいと思います。

いきなりこんな話で恐縮ですが、葬儀の話から始めます。考えるヒントになるので。私が小学生のときに亡くなった祖父の葬儀です。

祖父の葬儀は、自宅で行われました。祖父母が住んでいたのは戦前に建てられたけっこう大きな家で、庭もそれなりに広かった。その縁側を開け放って斎壇を組み、ぐるりと鯨幕を張って、庭に参列者が集まる形にしたのです。いまでは葬儀はセレモニーホールなどで行うことが多くなり、個人宅でというのは珍しいかと思います(地域によってはあるのかもしれませんが)。私自身、個人宅での葬儀を経験したのは、後にも先にもこの一度きりです。

とにかく、幼い頃からよく知っていた祖父母の家が一変して、非日常の時空間が出現したのです。

そのときもうひとつ、忘れがたいのは、バックヤードが出現したことです。庭と反対側の、勝手口の外に、まだ使える井戸があったのですが、そこに裏方用の休憩所ができました。たらいに水を張って、お茶やジュースが冷やしてあり、ここに来ると飲むことができたのです。六月の、梅雨の直前だか合間の晴れた日でした。おじやおばのほか、たぶん葬儀社の人も、入れ替わりここで休んでいたと思います。ふだん許されないジュースが飲み放題なんて、子供にとっては、夢のような場所でした。

アートプロジェクトやフェスティバルについて考えるときに、あれこれのお祭りやフェスではなく、むしろこの葬儀のことをよく思い返すのです。かたや、(もう)存在しない者と対面するイベントがあり、その反対側にはジュース飲み放題のスポットがある。日常の生活空間に、期間限定で、こういう異空間が出現する。業者が入るにせよ、なかばセルフビルドで、こういう空間を計画的に立ち上げる。何かここに、考えるべき最小限のモデルがあるような気がします。

とはいえこのモデルを、「東京」という規模に、そのまま適応することは不可能です。「東京」は巨大すぎるからです。「東京」は広すぎかつ複雑すぎて、個々人の体験のスケールを超えています。個々人に体験できるのはきわめてわずかな部分でしかない。「東京」の日常全体が一変するような異空間を出現させることは、よほどのことがないとできません。それはもはや、非日常より非常事態というべきかも。

ここでカギカッコをつけて「東京」と言っているのは、行政区だけを指すのではないからです。通勤・通学圏まで含めて、相当広い範囲をイメージしています。毎朝水平方向に移動して都心に吸い込まれ、夜にまた吐き出され離脱していく、大勢の人たちの個々の体験も、「東京」の大きな構成要素です。私もそういう移動を日々くりかえしている1人として、この移動をともなう生活実感を抜きにして「東京」を語ることはできないと思っています(その一方、電車をまったく使わない人たちの生活実感もあるわけです)。またエリアのことでいえば、東京「都」内にかぎっても、多摩から島嶼部まで含みます。23区または山手線の輪だけが「東京」ではありません。またそもそも江戸/東京は、成り立ちとして全国から人々が集まってできた「全国区」です。「東京ネイティブ」みたいなことでは到底捉えきれないスケールと、無数のレイヤー(層)があります。

これだけ複雑な巨大都市のフェスティバルをどのように考えていくか。イベントがあり、また一方でジュースが飲み放題になるような(これはもちろん、日ごろ許されない何かが一時的に可能になることの比喩です、念のため)、そういう状況を、どう計画的に実現するか。しかも、ただ非日常化することだけが目的となってしまっては、テロと同じことになりかねないので、きちんと意味を考える必要があります。何のためのお祭りなのか。誰による、誰のためのお祭りなのか。

東京芸術祭は、現時点では舞台芸術を中心としたフェスティバルです(今後多ジャンルに広がるのが理想です)。私の最新の認識では、芸術は「術」である、ということが大きなポイントです。作品と呼ばれるものは、その「術」を行使した結果でしかありません。「術」の行使の結果、絵画や彫刻などのモノが残ったり、パフォーマンスなどのコトが起こったりします。舞台芸術は「コト」を起こす「術」です。すぐれた「術」が行使され、(もう、または、まだ)存在しないはずの様々なものと対面するイベントが起こり、それと同時にジュースが飲み放題になるような、そういう時空間が、「東京」に、つかのま出現すると面白いのですが。

長島確(フェスティバル/トーキョー ディレクター)



長島 確(ながしま・かく)  ― フェスティバル/トーキョー ディレクター
1969年東京生まれ。立教大学文学部フランス文学科卒。大学院在学中、ベケットの後期散文作品を研究・翻訳するかたわら、字幕オペレーター、上演台本の翻訳者として演劇に関わる。その後、日本におけるドラマトゥルクの草分けとして、さまざまな演出家や振付家の作品に参加。近年はアートプロジェクトにも積極的に関わる。参加した主な劇場作品に『アトミック・サバイバー』(阿部初美演出、TIF2007)、『4.48 サイコシス』(飴屋法水演出、F/T09秋)、『フィガロの結婚』(菅尾友演出、日生オペラ2012)、『効率学のススメ』(新国立劇場、ジョン・マグラー演出)、『DOUBLE TOMORROW』(ファビアン・プリオヴィル演出、演劇集団円)ほか。主な劇場外での作品・プロジェクトに「アトレウス家」シリーズ、『長島確のつくりかた研究所』(ともに東京アートポイント計画)、「ザ・ワールド」(大橋可也&ダンサーズ)、『←(やじるし)』(さいたまトリエンナーレ2016)、『半七半八(はんしちきどり)』(F/T17、中野成樹+フランケンズ)など。東京藝術大学音楽環境創造科特別招聘教授。